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まれ天サンプル(第30回)、『大女優』

新潟競馬場

まれに天使のいる場所(第30回)、『大女優』

草薙 渉

「社長の長年の夢が、いよいよあと十分以内に叶うわけですね」
 秘書の宮本が緊張した顔でそう言う。新潟空港の到着口には、出迎えの人々が三々五々とたたずんでいる。福岡からの便が、あと五分で到着するとアナウンスが流れていた。
「まぁな」と、麻のスーツに真新しい縦縞のシャツ、同系色のハットを被った香田がにやりとする。「経団連の理事を引き受けるのは気が重かったが、おかげで学生時代からの大ファンである由布院静香さんに、直接会えることになった。まったく夢のようだ」
「社長のお話を聞いてから、私も由布院静香さんについて勉強しましたよ。四十年前は、日本中の若者を魅了した大女優だったんですね。ツタヤへ行って、『遥かなる山の稜線』と『卒業試験』を借りて観ましたよ」
「私は彼女のCDはすべて持っている。『遥かなる山の稜線』の彼女は十八歳七ヶ月で、まるで内面から輝いているような美しさがあるだろう」と、香田が目を輝かせて言う。
「たしかに、無垢な美しさが際立っていました。『ローマの休日』のオードリーに匹敵する輝きがあるのに、映画作品としてはあれほどの古典になれなかったのは、やはりストーリーの格の違いでしょうかね」
「台本のクオリティーの違いは、彼女のせいではないさ。どうだろう、彼女にうちのCMに出てもらうというのは」
「いえいえ」と宮本があわてて言った。「いいですか社長、今度の大型液晶テレビのCMは、若くて知的な女性を起用するのだと常務会でも決定してますし、広告代理店もすでにその方向で動いております。それだけは、お忘れのないようお願いしますよ」
「そうか。そうだったか」と香田がうなずく。
 福岡からの便が、定刻どおり到着したとアナウンスが流れた。

 小さな漁船が何艘か、広い日本海に点在しているのが見えていた。シートベルトの確認を呼びかける機内アナウンスが流れ、対面の席に座ったスチュワーデスが目礼した。漁船が見る見る大きくなった。
「香田さまというお方は、たくさんのお馬さんをお持ちのようですねえ」と由布院静香が言った。
「その中でも、今日は選り抜きの一頭が走るそうですよ」と、隣席の良子が答える。「もし一等賞になったら、一緒に口取りをお願いしたいと、そうおっしゃっていました」
「口取り?」
「そうです。馬場に出て、お馬さんの手綱を持って、たくさんのカメラの前に立つことですよ」
「そうすると、新聞にも出るかもしれませんね」と由布院静香が微笑む。「そう。久しぶりにね」と良子も微笑む。「二十年前に引退した大女優、という見出しで、大きなあつかいになるかもしれませんよ」
「それも、困りものですね」と由布院静香が言う。「でも、そろそろ蓄えがとぼしくなってきていると、あなたにも言われていることだし、新聞で騒がれるようなら、またお仕事でも再開しましょうか」
「そうはいっても、まずは香田さまのお馬さんが、今日一等賞にならないことには」と良子が笑う。「でも、秘書の私の分まで飛行機のチケットをご手配下さるとは、さすがは一部上場の社長さんですわ」

「最近はなかなか、いいご本に巡り合えなくて」
 テーブルのタンシチューがすでに半分ほどになっていた。新潟競馬場、ニルス・スタンド三階のイタリア軒で、由布院静香は小さなため息をついた。「それはそうでしょう。あなたほどの大女優は、ご自身で納得のいく作品だけに出演すべきだ」と香田がグラスビールに手を伸ばす。「まッこれをご縁に、今後ともよろしくお願いします」
「どうでしょうか、差し出がましいようですが」と秘書の良子が思いつめた顔で言った。「香田さまの会社のCMに、由布院静香を起用なさっては?」「いえいえ、それは無理な話ですよ」と、横から宮本が即座に言った。「来年からのCMは、すでに若手ナンバーワンの女優に決定しておりますし」
 来たな、と宮本は思っていた。社長のスケジュールを見て、先週ひそかに北九州支店に調査してもらっていたのだ。
 それによると、由布院静香はここ二十年、目立った芸能活動はしていない。が、敷地百坪の豪邸に住み、毎晩高いワインをあけるような豪奢な生活を続けているとか。おかげで、十数人いた使用人の給料も払えず、今では秘書兼家政婦と運転手だけで、この二人ももちろん無給。そればかりか、生活もこの二人がパートとかビルの管理人をして彼女を実質扶養している現状だと。すでに目ぼしい財産は売り払い、最近では固定資産税滞納で差押さえ競売の一歩手前らしい。
 そういう状況の中に舞い込んだ今回の新潟招待話に、起死回生の一発逆転を狙っているらしいと。冗談じゃない、次回のCMに起用決定している桐野弥生子は、僕の憧れの女優なのだ。七十過ぎの世間から忘却された女優など、わが社のイメージとして論外だ。
「若手ナンバーワン女優というと、どなたでしょう?」と由布院静香が尋ねた。
「桐野弥生子ですよ。彼女は二十六歳で、ひょっとすると今年度アカデミー賞にノミネートされるかもしれない。わが社としても、その前に契約を決めておかないとフィーが一桁も二桁も上がってしまうので、早々にと準備しております」
「桐野さん?」
 由布院静香が初めて聞いたフルーツの名前のように、たどたどしく復唱して小さく首をかしげた。
「さて、そろそろ時間ですし、下見所でもご案内しましょうか」と、香田が和やかに言った。

 パドックに降りて周回する馬を眺めていたとき、一人の青年が静香たちのいる馬主専用エリアに、柵を飛び越え静香のすぐ後ろの女性の腕をつかんだ。近くの人々が驚いて後じさったが、由布院静香は静かに眺めているだけだった。
「先生、大丈夫ですか?」と、秘書の良子が袖を引きながら小声で言った。「若いって、ホント、いいですねえ」と由布院静香が穏やかに微笑んでいた。

 そしてファンファーレが鳴り、レースがスタートした。由布院静香にとってはどれがどれだか、何がなんだかわからないまま、レースが終わって香田の持ち馬が一着になった。
 ウイナーズサークルに曳かれてきた馬はまだレースの余韻に満ちて荒々しく、検量室から戻ったジョッキーもなかなか乗せないほど興奮していた。手綱は調教師とか厩務員に任せて、決して近づかないほうがいい、と香田や宮本が何度も言った。
「とりわけこの馬は気性が荒く、噛み癖や尻跳ねがありますから」
「このお馬さんは、お幾つですか?」と由布院静香が訊いた。人の話を聞いていないのは、いつものことだった。
「四歳です。人間で言えば、二十代半ばでしょうか」と香田が答える。
「そうですか」
 やがて太くて長い手綱が用意され、馬も少し落ち着いた。そしてカメラマンがわらわらと集まってきて、優勝馬口取りの記念撮影がなされようとしたとき、由布院静香がためらいもなく馬に近づいていった。香田が、宮本が、秘書の良子が息を呑んだ。

 まだ息の荒い馬の正面に立った由布院静香が、「おつかれさま」と言った。血走った馬の目に静香がたわんで映っていた。それから、すっと伸びた彼女の右手が、馬の長い鼻面にぴたりとあてがわれた。
 誰しもが息を呑む中、「あなたは、まだまだお若いのよねえ」と馬に話しかける声が聞こえた。「若く、勢いに満ち溢れている。それにひきかえこの私は……」
 馬が、されるままにおとなしくしていた。背後で、さかんにシャッターの音が響いた。
「わかっているのですよ」と、由布院静香が馬の顔を両手ではさんで、馬の鼻面に額をつけた。「私にはもう、輝くものがなくなってしまったということ」
 馬が、されるままに頭を下げていた。由布院静香と額をつけあったまま、目を細めていた。それは心底、哀しみを共有している雰囲気だった。
 しみるような由布院静香の声に、あたりの空気までが変わっていた。「歳月が、私から応分の取り分を持っていってしまいました。でもね」と静香が馬の顔を両手ではさんだまま、諭すように言った。「歳月が持ち去れないもの。容姿は色あせても、変わらないものがあるのですよ」と、やわらかく馬の鼻面をなでた。その由布院静香の頬に一筋の光が流れて、シャッター音がいくつも重なった。

「社長。私は魂が震えました」と涙目の宮本が言った。「歳月の中で変わらないもの、色あせないもの、それがわが社の製品なのだと、このコンセプトで由布院静香さんにCMをお願いしましょう。できれば社長の馬にもご出演ねがって、今のシーンを再現しましょう。この感動は、若い女優では絶対に出せません」
 やはり涙目の香田が、何度も大きくうなずいていた。

 新潟発福岡行き最終便が、離陸の態勢に入ろうとしていた。シートベルトをした秘書の良子が由布院静香のほうを見て言った。
「今日の先生は、最高の出来でしたわ。見事な涙でした。これでお仕事も舞い込むでしょうし、私たちの生活も安泰ですわ」
「あなたには、何もかもお見通しね」と、由布院静香がちろっと舌を出した。そのしぐさが、まるで乙女のようだった。
「それにしてもあのとき、お馬さんに噛まれたらどうしようかと思いましたよ」と、良子が心配顔で言った。
「ええッ、お馬さんって、噛むんですか?」
 由布院静香が驚いた顔になった。(了)


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