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まれ天サンプル(第27回)、『源さんの臨死体験』

美浦トレーニングセンター

まれに天使のいる場所(第27回)源さんの臨死体験

草薙 渉

「まったくよお、あんな口向きの悪い馬は見たことねえ」と、引き綱を肩に担いだ源太が言う。「ゲートは嫌がるし、坂路じゃ口割って右に左にアカンベしやがって、真っ直ぐ走ろうとしねえんだ。ありゃただのバカ馬だ」
「先週来たツヨシクンですか」と、持ち馬の栗毛にシャワーをかけながら坂田が笑う。「まだ美浦の馬場に慣れてないし、ハミが合わないんでしょう。血統はいいんだし、まともに走ればかなり上に行ける馬ですよ」
「そうかなあ。蹴り癖はあるし噛み癖もあって、ろくなもんじゃねえ」
「耳が御神楽で、可愛い馬じゃないですか。調教師(テキ)に言ってリングハミに変えれば、舌が収まって言うとおり走りますよ。最近は舌触りの柔らかいのもあるらしいし」
「うーん、リングハミねえ」
 たまには大学出の言うことも聞いてみるか、と源太は小さくうなずく。「ったく、来年還暦で、同期の和馬の野郎とも選択定年の相談してるのに、おれの最後の馬があれじゃあよぉ」
「ツヨシクンはまだデビュー前の二歳じゃないですか。源さんだけがたよりなんだから」
「飼葉もらうのも当然ってえ顔してやがる。おれをたよってるとは思えねえよ」
「そんなことないって。あれ、またパチンコですか」
「まあな、じゃあ」
「おつかれさま」
 坂田が栗毛にブラッシングしながら小さく笑った。

 こいつもいよいよ定年か? と、源太は調子の良くないバイクを走らせる。思えば十数年も前、預かっていた馬の馬主(おやじ)が「おまえの自転車あまりにも古いから、国道の自転車屋に注文しておいてやったぞ。帰りに寄って乗っていきな」と言ってくれた。
「いつもすんません」とおれは頭を下げた。厩舎(うまや)に来るたびにご祝儀をくれる太っ腹の馬主だった。そして帰りに自転車屋に寄ると、なんと新品のバイクが待っていた。
 思えばあの馬主は粋だったなあ、とすっかり古くなったバイクを撫でる。妾の家で腹上死したと聞いたときは、真っ先に行って焼香してきた。考えてみるとおれも和馬もまだ若く、このバイクも新品だったんだ。が、みんなみんな歳月に呑まれていくんだなあ。

 パチンコ屋の看板を目指して国道の交差点で右折しようとしたとき、信号が変わりそうで嫌な予感がした。古いバイクはここのところ出足が悪く、案の定クラクションを鳴らしたダンプがド迫力で突っ込んできた。
 やばッ! ダンプのバンパーに電飾された『天下御免』の文字がドアップになった。天地の割れるような音がして、テレビのコンセントを抜いたように視界がいっぺんに真っ暗になった。

 なんだ、なんだ! 気がつくと源太は天井に張りついていた。
 ここは、病院か? すぐ横に三本の蛍光灯があって、石膏ボードの天井がひろがっている。源太は天井に背中をつけて、部屋を見下ろしている自分に気づいた。
 いったい、どうなっているんだ。真下にはベッドがある。血のにじんだ包帯で全身ぐるぐる巻きにされた患者が、横たわっている。
 あーあ、何だよ、あの患者は、おれじゃねえか。ベッドの横で泣いているのは、おっかあだ。学校から駆けつけたのか、息子もカバンを持ったままベッドの脇に立っていやがる。そうか、ベッドの反対側から覗き込んでいるのが医者だな。点滴や、わけのわからない医療機器があって、看護師もいる。
 ってえことは、おれは国道でダンプに撥ねられて、そのまま……。

 待て待て、おれはまだ死んだわけじゃねえ。おれは二十年前、馬に蹴られて死に損ねたとき、紛れもなく臨死体験をして生還したんだ。その後その関係の本を読みあさって勉強したんだ。
 そう、スピリチュアルな霊魂説、脳内異常現象説と、おれはこういうのには滅法くわしいんだ。今のこれは、その中の霊体離脱ってえ状況で、まだ首の皮一枚つながっているんだ。

 臨死体験……。そうなんだ、二十年前の雨の日、馬に右胸を蹴られて肋骨を七本折った。あのときはいきなりお花畑だった。暑くもない寒くもない気持ちのいい風が頬を撫でて、空が底抜けに青かった。そこを歩いて行くと、やがて綺麗な川が見えた。透明な水が流れていて、膝くらいの深さしかなかった。
 その向こう岸で、足首まである真っ白な服を着ただれかが、おれに向かって手招きしていた。あぁ、あれは小さいときおれを可愛がってくれた爺っちゃんじゃないか、とおれは嬉しくなった。そう、なーんのストレスもなく、おれは心底嬉しかった。だからそのまま川に入ろうと、入って向こう岸へ渡ろうとしたとき、背後でおれを呼ぶ声がした。

 振り返ると、まだ若かったおっかあがしきりにおれを呼んでいた。そうか、ここを渡ったら、おれはもうお仕舞いなんだとふと我に返って、おれはおっか声のほうへ戻ったんだ。あのときは肋骨だけじゃなく肺を半分潰されて、おかげでそれからは禁煙することができた。
 しかし待てよ、今回のこれは、霊体離脱というやつだ。こいつは厄介なんだ。とりあえず下に見えている自分の身体に戻らないことには、そのままだってえ話だった。
 時間がたつとあの身体が酸化して腐り始めるし、天井に漂っているおれのこの意識も、やがてはかすみのように消えちまうのだ。

 知らぬ間に時間がたったのか、医者も看護師もいなくなっていた。おっかあと息子も疲れたのか、ソファーで寝ていやがる、と包帯を巻かれた自分の身体を見つめた。
 何はともあれ、早いとこあそこに戻らなければ、と右を見ると、半透明の右腕が見えた。左を見ると、左手も半透明になっている。
 なんか、たよりねえなぁ、と思いながら、天井面に両手をついて、下に向かって「よッ」と反動をつけた。
 ゆっくりと、まるで深海に沈下していくようにベッドが近づいてくる。
 うまいぞ、もう少し右だ……と手足に力を入れたり腰をひねったりして、微妙に位置を修正していく。ゆっくりと沈下しながら、なんとかベッドの上の身体に近づいていく。
 そうだ、もう少し、としだいに止まってしまいそうになる半透明の自分を慎重にあやつりながら、源太は「それ、それ」と力んでいた。

 やがて半透明の足先がベッドに横たわった身体の胸元をとらえ、暗い玄関で靴をまさぐるように入り口を模索した。
 んッ、これか? いやもっと左か? すっと、胸のある場所に足先が入って、そこからは吸い込まれるように半透明の自分がベッドの上の自分に流れ込んでいった。
 よかった。なんとか戻れた、と足先の指の一本一本まできっちりと収まるのを感じたとき、経験したことがないほどの疲労感に襲われた。眠い。どうしようもないほど、眠い、と強烈な睡魔に取り込まれていくのを感じた。

 意識が戻ると、そこはお花畑だった。
 なんだ、てっきり生還かと思ったら、まだここかよ。見えている草花は派手やかな色彩ではないのに、その一輪一輪が鮮やかに輝いている。
 気がつくと服は着ているけれど足は裸足だった。足裏にあたる湿気を含んだ土がとてもここちよい。しかしこの爽快感は、本に書いてあったように脳内で快楽物質のドーパミンが大量放出されているのだ、と源太は思った。
 生物の最大のストレスである死を、快感に変えてしまうという脳のメカニズム。心の底の底まであたたかく、叫びたくなるような気持ちのよさだった。

 やがて浅い川が見えた。水の一滴一滴までが発光しているようにきらきらしている。川底の砂の一粒一粒がダイヤモンドのようだ。
 おれは知っている。欧米人だったら、ここは光のトンネルなんだが、宗教の違いか日本人の臨死体験は、たいてい三途の川なんだ。

そして、「居たー!」と源太は思わず微笑んだ。川の向こうで、足首まである白い衣装の爺っちゃんが大きく手招きしている。
「おお、ダブルじゃないか」
 今回はその隣に、同じ衣装の婆っちゃんまで出迎えてくれている。
 さぁーてどうする、と川のふちで源太は考えた。この気持ちのいいまま、今回は川を渡っちまうか。それとも、この場面でだれかが後ろから呼んで戻るのか、と背後に意識を集めた。

 だが、何処からも何の声もしない。
 そうか、そういえば前の事故に遭って、あれからたっぷりと生命保険をかけたんだった。おっかあにしても二十年前のあのときのような切実さは、もうないのだ。息子も、高校二年といやあオヤジが煙ったい年齢だし、さっき見たときも、二人ともぐっすりと眠っていやがった。
 それに、ひるがえってわが身を思えば、酒にギャンブル、スナックのお姉ちゃんと事を起こしたのも二度、三度、四度。まぁ、おっかあにうとまれ、息子にうざったがられるのも、自業自得ってやつか。
 人生六十年。思えば十八の春から関わったウマも、四十年以上やってGⅡ八着が最高成績だったか。ダービーや有馬記念とは言わねえが、せめてGⅠの掲示板に載るような馬に関わりたかったなぁ。
 夜は八時に寝て朝は三時起き、雨風の日も具合の悪い日も、寝藁を返したりボロを拾ったりを繰り返してきた。そういうあれこれも、これでもう全部終りに出来るんだ。

 ここはまぁ、爺っちゃんと婆っちゃんの呼んでるあの向こう岸へ渡るのが、セーカイかなぁ。おっかあや息子は寝てやがるし、友達といっても、同期の和馬をを別にすれば、あとはゆるい呑み仲間ばかりだ。
 もうだれも後ろから呼ぶやつもいねえし、まぁおれの人生なんてこんなもんか、と人生走馬灯現象の中で川向うを見つめた。

 どのみち戻ったところで、死ぬほど退屈な老後が待っているだけことだ。何ともいえぬほど気持ちのいいこの状態で、すっきりとそのまま逝けるなら、それが至福のことじゃねえか、と清流に右足を入れようとした刹那、源太の背後に馬の嘶(いなな)きが響き渡った。
 振り返ると、大きな瞳をうるませた二歳馬のツヨシクンが、じっとこっちを見ていた。
「戻れってか? 戻って、世話をしろってか?」
 涙目のツヨシクンが、何度も首を上げ下げしていた。(了)


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