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愚痴は吐くもの 夜は更かすもの

 今日は人と会った。(なかなかに良い会合だった!)そして帰ってきたのは日付が変わってからだった。

 バイト先の都合やら、オールカラオケやらで日が昇ってから帰ることも珍しくなくなった今となっては、それでもむしろ早いと思えるようになった。とはいえこんなものをヘッドの中で書いているから、その帰宅時間も意味がない。何回、こうやって、空想に時間を費やして夜更かししたことだろう。夜更かしという言葉に感じていたはずの罪の味は、ガムと同じで、もう消えてしまった。

 罪の味といえば、個人的に馴染み深いのが練乳である。チューブから口に流し込むのが好きだった。特に、深夜に目覚めて、親の目を盗んでキッチンに忍び込めたときのそれの味。達成感と罪悪感の味。あれは小学生の時分にしか味わえないものだった。オトナの味なるものがあるならコドモの味だって当然存在するのだ。もっと早く気づけば良かった。背伸びして酒なんか飲まなくて良かった。酒ももちろんおいしいが。

 酒は好きだ。自室に何本か持っているくらいだから。なかでもコカレロが一番好きだ。……パーティドリンクとは言うけれど、一気飲みするなんて勿体ない。ワンショット分を注いだら、そっと口をつける。アルコールの燃える感じや甘い匂いが分かったら、少量を舌の上にのせ、嚥下する。そこには極めて小さな、しかし無限の豊かさを持つ森がある、と感じられるはずだ。多分。森は「やすらぎ」「リラックス」などというイメージを託されやすいが(そしてその多くは柔軟剤や入浴剤の広告に用いられる)それとは違う森の感じなのである。殺人的な日差し、暴力的な雨、何人たりとも通さない木々の密度、生存競争を経てたくましく伸びる草、そういった、森のなかにある「獰猛さ」を感じる。そうだよな、お前は大人しいだけのやつじゃないんだよ、お前のそういうところが私は好きなんだよ、と思いながら飲む。さっさと酔うために飲むなんてひどい話、これにはもっと味わわれる価値がある、と思いながら飲む。……私はそんなやつじゃない、私にはもっと他に価値がある、と思いながら飲む。じゃあ見せてみろよ、と言われては何も出来ないからまた酒を飲む。

 吐く愚痴にも種類がある。私がよくやるのは、地面に唾を吐くような勢いのあるそれではなく、嗚咽や痙攣の後に力なく吐くようなそれである。分解を拒まれた感情やトラウマが、終わりも始まりもなく、こぼれ続ける。まだ入ってます。まだ吐いてます。似ている。

 空想のための夜更かしはスピード感がある。連想が連想を呼び、最初何を考えていたかを忘れてしまうほど。それは、エンジンを吹かし、そこらの大通りを真夜中に駆け抜けていく、マフラー改造による轟音と同期する。私は夜を更かし、頭の中のサーキットを走り回っている。実際、頭が回っているのだから(結果的になんの成果も生まない回り方で、またそんな回転の方向だったとしても)ニューロンが発火しているはずで、頭の中はまさしく駆動しているといえる。頭の中ではひとりで走れる。空想には価値がないから比べることもない。比べずにいられることの尊さを思う。根源的に比類なき存在でいられるから空想は好きだ。私は私のために空想を行っている。

 雨でじっとりと地面が濡れて、まとわりつくような湿気が感じられる、外気温16℃の夜、コートが鬱陶しく感じられるほど生暖かかった。しかし不快ではなかった。川沿いをあるくと水辺に吸い込まれるよう、呼吸するたびに、雨で浮かび上がった自然の息づかいが肺に流れ込んだ。晴れの日の道も素晴らしいけれど、人間のための舞台みたいで正直気に食わないときがある。雨の道には人はまばらで、自然がすこし前の姿を見せてくれたような気がした。街と呼ばれる部分は、大部分がコンクリートの皮膚という表層的な面でしかないことを思い出す。そしてわたしの生きる世界はその薄皮の上にある。科学的強度への絶大なる信頼のもとでの暮らし。言葉が現実を切り分けて概念にしていくように、科学は自然を数式で表していく。きっと、私が雨の道で感じた心地良さは、言葉でも科学でも語り難い部分のそれなのだと信じてやまない。 

 優先座席には初めから座らないでおく。いざと言うとき、譲るのが面倒くさいから。それと同じで、人間関係の、どのコミュニティにおいても、なるべく外縁にいて、ぷらぷらとしていたいところだが、なかなかそれが難しい。寂しさが理由だ。寂しさの引力に導かれ、人の輪に引き付けられている。ときおり、四肢が引き裂かれそうだ、と思う。しかし無重力の宇宙を漂う勇気などは全くないから、こうして身動きがとれないままでいる。この状態のことを、自由と呼ぶ人もいるらしい。

 自分だけの感情ってそんなに存在しないらしい。誰かを好きになるという感情でさえも類似するらしい、とすれば、恋から大きく価値が失われることにはならないだろうか。代替不可能性を恋と呼ぶなら。

⬆新説:代替不可能なのはその対象、その人のみであって、その像に対して感情を抱く周辺の人々(私含む)は別に代替可能ってことなのかもしれない。だとしたらしんどい。


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