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「四月の夜の潮風」

僕は工場に七年間勤めていた。

海を横に置いた工場地帯の一つで、壁紙を作る工場。

築三十年、従業員は約二百人の少し大きな工場だった。


その工場は一年に平均二回、火災が起きる。

だから僕はおよそ十四回、火災に巻き込まれた事になる。

搬送先の病院の先生はまたこいつらか、と思っていただろう。


シンナーを扱う工場での火災の煙は、人体に有毒な影響をもたらす。

声を失う人も居れば、脳がいかれる人もいる。

僕はおよそ十四回目の火災で遂に、右目の視力を失った。


そして退職届を出した。


次の就職先のあてなんて勿論ある訳が無い。

今年、三十歳になるやつがこのタイミングで会社を辞めて何を考えているんだ、と社長は言って来たが右から左へ受け流して、颯爽と工場を後にした。


気付いたら僕は工場から少し離れた崖に立ち、荒れる海を覗いていた。

四月の夜の潮風は少しツンとする塩の匂いと、生温い温度を運んで来る。


死に際とはこんなモノなのだろうか。


そんな事をふと思っていたら、背後から声を掛けられた。

岡田だった。

僕はこいつが嫌いだった。


「奇遇じゃんか。お前と一緒にあの世に行くのか俺は。最悪の死に際だな。向こうでも俺の言いなりになってくれよな、負け犬くん。」

岡田は会社の上司だった。

勤めて七年間、僕は岡田に嫌がらせを受け続けていた。


でも何故、岡田がこんな所に居るのだろう。

僕に最後の嫌がらせをしに来たのか?

そうだとしたら何故、僕がここに居るのが分かったのだろうか。


「何か疲れちったんだよな。色々とさ。」

岡田が見た事も無い、遠い目をしていた。


「俺が先に崖から飛ぶからさ、お前見ててくれよ。先に飛ばれたら気が引けちゃうからさ。…じゃあ、先に行くわ。」

そう言って、岡田は躊躇なく崖から飛んだ。


一瞬だけ、四月の夜の潮風が止んだ気がした。

僕は岡田が立っていたその場所をただ見ていた。




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