第3章 (第2稿) 固定観念をそぎ落として生まれながらの芸術家に戻る

見出し画像3

2012年暮れに定めた「行動指針」に従い、「みっともなく、恥ずかしく、痛い」位の姿を晒し、「みっともなくジタバタあがく」を自らに課すことで、それまでの気持ちはふっきれて、他人にどう思われようと気にせず、躊躇もなく、思い切った行動をとれるようになりました。

しかし、そうして1年近くが経過したころ、ジタバタあがいているうちに、新たな悩みがムクムクと頭をもたげてきました。

みっともなくジタバタとあがくのは、ともすれば、過去の成功体験や常識に縛られそうになる自分を戒めるためです。

ところが、50年以上も生きてくると、自分自身の中に染み付いた世間の常識とか世間体とかが、実に強敵であることを思い知らされます。どうしてもそいつらから完全に決別できないのです。

何か新しいことをやろうとするたびに、自分自身の内面で「そんなことをしてもきっとうまくいかないからやめとけ、第一みっともないじゃないか…」と囁くドリームキラーが頭をもたげてきます。

そこで、みっともなくジタバタあがくことが、僕の「挑戦」(チャレンジ)なのだ、と精一杯抗うのですが、ときとして形勢不利になることも……。とくに実現可能性が低いけれど、チャレンジし甲斐のあることについては、さらに形勢が悪くなります。

「できない理由を考えるのではなく、どうしたらできるようになるか考えよ」という言葉がありますが、できない理由を考えてしまうのは結局「楽をしたい」という自分の弱さが顔を出してしまうからです。

吉田松陰の「諸君、狂ひたまえ」という言葉がありますが、なかなかその境地に至れません。いったい、いつになったら「変人」になることを恐れなくなるのか、悶々とした日々が続きます。

そんなある日、パブロ・ピカソの次の言葉を目にしました。

子どもはみな、生まれながらに芸術家だ。
問題はいかにして芸術家であり続けるかということだ。

この言葉を目にしたとき、ハタと膝を打ちました。「そうか!潜在意識に染み付いていた「やつら」を削ぎ落とせば、できるようになる方法を思いつけるのではないか!」と反射的に考えたのです。

そして、つらつら考えるうちに、染み付いた「やつら」は、「思い込み」「固定観念」であるな、と思い至りました。

「思い込み」「固定観念」は、いろいろなアイデアや発想を生み出そうとしているときによく邪魔をしてくれます。

よく言われることですが、アイデアとは突出した人が考える独創的なものではなく、既存の要素の新しい組合せ以外の何ものでもありません。

梅沢忠夫の「知的生産の技術」には、こう記されています。

カードの操作のなかで、いちばん重要なことは、くみかえ操作である。知識と知識とを、いろいろにくみかえてみる。あるいはならべかえてみる。そうするとしばしば、一見なんの関係もないようにみえるカードとカードのあいだに、おもいもかけぬ関連が存在することに気がつくのである。
梅沢忠夫 「知的生産の技術」(岩波新書)

野口悠紀雄の「『超』発想法」には、こう記されていました。

新しいアイデアは、すでに存在しているアイディアの新しい組み合わせや組み換えで生じる。この意味で、どんなに独創的に見えるものでも、従来からあるものの改良なのだ。
野口悠紀雄の「『超』発想法」(Kindle版 電子書籍)

いずれにしても、ゼロから何かを作り上げるのではなく、既存のものを利用したり、新しい組み合わせを見つけたりすることがアイデアの元になっているわけです。

ここで、既存の要素を組み換えようとしたときに、それぞれの要素について「思い込み」や「固定観念」があると、新たな発想の障害になってしまいます。

アイデアは、既存の要素をさまざまに組み合わせていかなければならないのに、この要素はこういう意味しかない、と思い込んでしまっては、せっかくもっているはずの可能性が奪われてしまいます。

さまざまなことを思い浮かべて、それが固定化された形ではなく、アメーバのように変形しながら有機的に結びついていく、そんなことができる柔軟な頭にしていかなければなりません。

これを実践することで私も、ピカソの言う「生まれながらの芸術家」に回帰しようと決心したのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?