第2章 (第2稿) チャレンジとはジタバタとみっともなくあがくこと

会社を55歳でアーリーリタイアメントし、フリーランスのITコンサルタントとして再出発して約半年が経った2012年の暮れに、再び転機が訪れます。

その年の11月に、あるセミナーのワークで「自分史」を作成し、生まれてからの人生を振り返る機会を得ました。その「自分史」を書くことで、自分の内面と深く向き合うことができたのです。

自分史の中で、20代のころに「打席に立って三振するより、打席に立たない方が恥ずかしいことだ。」という行動指針を定めたことを記しました。

自分史を作成した時期は、独立して半年以上が経過し、足元を固めているところでした。独立したのだから、しっかりと地に足を付けて前向きに進んで行かねば、と力んでいた時期でもありました。

そんな時、あるきっかけで自分が無意識に目を背けていた事実が、ぼんやりとした輪郭をもって浮かび上がってきたのです。

それは、「打席に立って三振するより、打席に立たない方が恥ずかしいことだ。」とそれまで固く信じていたのに、「試行錯誤して失敗することを怖がっている自分」「みっともない姿を晒すことを怖がっている自分」「臆病で前に踏み出すことを躊躇している自分」がそこにいたのです。

信頼されるコンサルタントとして評価されるように、絶対弱みを見せないように力んでいた自分がいて、結果としてその力みが自縄自縛となり、失敗を恐れて新しいことに取り組むことを躊躇させていたのです。

頭では、打席に立たないのは恥ずかしいことだと思っているのに、分かっているはずなのに、その当時は身体が言うことを聞かなかったのです。

この時期、さまざまなカンファレンスに、セミナーに、ワークショップに通っていたのは、そんな自分と決別するために無意識にもがいていたからかもしれません。

前に進めない自分を目の当たりにして愕然としたわけですが、まずは落ち着いてそれが事実であることを認めることから始めました。

そして、自分のことを過大評価している、というより過大評価したがっている自分がいたことに気がつきます。

自分を過大評価したい自分がいたため、失敗したりみっともないことをしでかすことを自分に許していなかったのです。要するにうまくやれること、ちゃんとやれることしかできなくなっていたのです。

それでは既に経験もし、やり方も分かっていることしかできなくなるわけです。仕事だけでなく、ブログにしても、文章に誤字脱字があってはいけない、表現がおかしくなってはいけない、読みやすい文章になっていなくてはいけない、と自分をがんじがらめにしていました。

つらつらと考えているうちに、「自分史」をもう一度読み直してみることにしました。そして、色々失敗したり酷い目に遭ったり理不尽な思いをさせられたことが、その後の人生にさまざまな糧を提供してくれたことに改めて気づかされます。

この気づきをキッカケにして、何かが変わり始めたように思います。

そして、ちょうどそのころに配信されたメールマガジンに、たまたま次のような一文がありました。

なにか事を起こそうと思ったなら、「痛い人」になるのは通過儀礼のようなものである。そこを通過しないと次の世界には出られないのだ。

だから「みっともない人」「恥ずかしい人」「痛い人」だと後ろ指を差されれば、その事実を喜べばいい。そうやって試行錯誤しているうちに「やり方」が分かり、洗練もされてきて、目指す世界に到達できるだろう。

そのときになって自分に向けられていたその指(後ろ指)を、そっとご本人の方に向け変えて差し上げれば良いだろう。

鮒谷周史 「平成進化論」

気づいた事実にどう向き合い、そこからどう進むか悩んでいたタイミングでちょうどこの一文を読み、とても感化されやすい自分は、次の2つを新たな「行動指針」にすることを、アッという間に決めていました。

56歳にもなって改めてこのような決心をするのは「みっともない」ことで「恥ずかしい」ことだという一瞬の躊躇はありましたが……

1.これからどこにいても何をやるにしても、格好をつけたりせず「みっともなく、恥ずかしく、痛い」位の姿を晒し、試行錯誤していくことにしよう!

2.挑戦(チャレンジ)」という言葉を「みっともなくジタバタあがくこと」と再定義しよう!

この新たな「行動指針」を定めた後、気持ちはふっきれて、他人にどう思われようと気にせず、躊躇せず思い切った行動をとれるようになったのです。

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