欲望
『芥川龍之介「藪の中」論 : 一人語りの虚構』を読む。
注目したいのは、【検非違使の問いに応えているのはー木こり、旅の僧、放免、真砂の母、多襄丸の5人であり、真砂・金沢武弘夫婦は其々一人語りである】という論。夫婦の語りは、誰も聴いていないという体だ。納得、すとんと落ちた。
更に浮かび上がったのは、多襄丸の云う「宝」に欲を丸出しにした夫婦の姿。どちらかと言えば武弘にその傾向が強い。しかし夫婦の語りは共に、多襄丸の強姦という罪から始まる。何故ゆえ、藪の中に入り込んだかーその愚かしさは語らない。この「欲」について触れているのは多襄丸唯ひとりー「どうです、欲というものは恐ろしいではありませんか」。
ただ今『藪の中』を形にしようと稽古中。自身の表現は多襄丸を中心に、武弘の証言は本人のものでは無い事を基本とする。『藪の中』全体を表す〈不確実性〉を踏まえながら、『藪の中』に隠されたモノのひとつー「欲」を表現の真実にしようと思う。
さて、昨年末放送されたNHKドラマ『ストレンジャー~上海の芥川龍之介~』では、新聞特派員として海を渡った29歳の芥川龍之介が体験した激動の上海が描かれた。晩年の芥川が目指した詩的な世界観をも彷彿とする音楽、ほぼ全編にわたる現地ロケ、好感の持てる脚本等、丁寧に創られた作品だと思った。これを観た多くの方にとって忘れ難い存在となったであろう薛薛(ルール―)という男娼も良かった。若き革命家に「中国はどうですか」と聴かれ「正直、少し参っている」と答える芥川。。。ドラマ鑑賞後「これは参るわ」という感想を私自身抱いた。混沌とした大陸も又「確かなモノなどない現実」と「欲望と渇望」の渦であったろう。芥川が上海を取材したのは大正10年3月下旬から7月上旬。『藪の中』発表の前年である。