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江戸名代の店〔無極庵〕

実在した蕎麦店…ご存じだろうか。

(池波正太郎作『正月四日の客』より)…上野仁王門前にある蕎麦屋、無極庵に奉公することを得た庄兵衛は、この江戸名代の店で修業をし、三十五まで勤め上げた。…

因みに、上野仁王門前<うえのにおうもんぜん>は、今の〈あんみつ みはし〉辺りから〈鈴本演芸場〉付近一帯の旧町名らしい。

『正月四日の客』主人公の庄兵衛は<無極庵>で蕎麦の腕を磨き、本所の枕橋に女房と店を開く。それが本作の舞台〈さなだや〉であり、屋号の由来〈さなだ蕎麦〉がストーリーのカギを握る。

辛い過去を持つ庄兵衛にとって、蕎麦こそ人生。黙りこくって、来る日も来る日も打ち続ける。その修業の場<無極庵>は一体どんな店だったのか。

〈上中里そば浅野屋〉さんへ伺うと…この本から〈無極庵〉を引いて下さった。

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す、すてきだ! タイトル真直ぐ! オーソドックスな装丁★

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成程~。有難うございます!〈麦切〉と〈麦縄〉の違いは…大麦と小麦? 現代で〈麦切〉は何というのだろう。ふむふむ、面白い‼‼‼ 〈むこそば〉「婚礼そばとみてよかろう」のフレンドリーな物言いも一興。

では文明の利器に頼って情けないが、ググっと検索。

無極庵をご先祖に持つ方が鑑定を依頼した看板。画像からも「極」の字は良く解る。これが、麺類百科事典にある大久保彦左衛門が揮ごうしたものというわけかー。不勉強で良くイメージできないが、大久保彦左衛門は戦国~江戸時代前期に徳川に仕えた武将。「一心太助」の伝説などでご存知の方も多いのだろう。

別の情報には…

【無極庵】上野を降り、右側にして門前に車井戸のある家なり。座敷はすべて襖張りの画によりて春夏秋冬に分てり。この家料理の価甚だ廉にしてかつ三つの名物あり。一は東叡山の開山なる天海僧正、この家の号を名付けたる無極の二字を大久保彦左衛門が筆せる扁額にして、古色最も愛すべく。二は蕎麦にして、これは三百年来伝来の特色なるもの。さて三は娘みつ女の手踊りなり。もっとも初めと終わりのものとは、主人これを秘蔵しおれといえども、第二の蕎麦は客の求めによりて進むるなり。(『東京百事便』)

名付け親の天海僧正は、江戸時代初期、幕政に大きな影響力を持っていた人物。何だか〈無極庵〉すごいなぁ。この天海さん、、、何と、明智光秀は同一人物という説があるとか!信憑性は低いらしいけど…。もうすぐ「麒麟が来る」最終回!本能寺の変ですね。

もといもとい、

明治22(1889)年10月~11月にかけて「無極庵」の南隣に下宿していたのが正岡子規。

岡ぞひの蕎麦まだ刈らぬ落葉哉(明治30)
   町暑し蕎麦屋下宿屋君か家(明治31)    子規

子規の記述には、

我寓の南隣は新築にかゝる無極庵にて、安直なる書生の懇親会の会場なり。

ともあり、他の記事からも蕎麦以外の料理にも力を入れていたようだ。

成程、上中里そば浅野屋然り、上品な酒とつまみの後、すっきりと蕎麦で〆るのが大人の楽しみ方だろう。

上野不忍池の畔に佇んでも、広小路あたりを徘徊しても、残念ながら〈無極庵〉を彷彿とすることは難しい。一体どんな蕎麦を出していたのだろう。店構えは…など思いは募る。だが、人の心と食の結びつきが描かれる『正月四日の客』で、時代を超えて綿々と親しまれてきた蕎麦という食物の魅力も伝えられたらと切に願う。

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