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国境放浪記①雲がかった国境の街・メーソート



これから綴る文章は私にとっては「失敗」の記録だ。それは、私自身が見たかったものや行きたかった場所に辿り着けなかったことが理由となるが、こうした結果になったのは私自身が持ち込んだ無用なこだわりによるところが大きい。

初めての国外一人渡航で、関心のある地域へ行く。
目的はミャンマーの少数民族が支配する土地へ入り、主に現地で暮らす人々や兵士たちの生活・考えを聞き、果ては従軍したかった。
そこに私の持ち込んだこだわりは、人のつてや人脈に頼らず、国境付近の現地で知り合った人たちに協力してもらうことだった。なぜかといえば、人脈をつくって行っても計画的な日程となり新たな発見が乏しかったり、それまで現地に入ったことのある人と同じ道を歩く可能性がある。それでは私が行く意義は薄いし、現地でゼロから交友関係を築いていくことに意味を見出していた。
現実はそう甘くはなく、国境の街といっても外国人がいきなり信頼されたり簡単に越境できるものではなかった。当然だと言われればそうなのだが、最初の渡航で人脈を伝うという選択は私自身の性格上、どうしても回避できなかった。不器用に地べたを這うやり方で、こうした結果になることは決定されていたのかもしれない。

そもそもの現状、ジャーナリストや写真家などとして何かを伝えたいという確固たる意志を持っているわけではない。なにも実際に現場に足を運んで見てすらいないのに、何かを伝えたいという情熱的意志は生まれない。
つまり私は、その段階にすら立てていないということだ。実際、今回の渡航は情勢に興味のある学生が放浪して現地の雰囲気を知った延長上にある程度のものだった。

タイ北西部、ミャンマー国境へ

荷物を整理後、東京にある家賃4万代のアパートを解約。まず向かう先は成田からタイ王国のバンコクだ。
快適とは言い難いエアアジアの格安飛行機に約7時間揺られ、バンコクを数日滞在後に夜行バスでメーソートへ向かった。

日本では信じられないほどの急カーブが続く山道に内蔵が悲鳴を上げる。酔い止め薬を飲めば良かったと後悔しながら我慢を続け、朝6時頃まだ陽光が差さず暗闇が広がるメーソートの街に辿り着いた。

早朝のメーソートバスターミナル。 
ソンテウの運転手はミャンマー人と思われる人々に
高らかな声で営業していた。

暫くターミナルの椅子に転がって時間を潰すと次第に空が明るくなってきた。とはいっても、筆者が到着した9月下旬頃はまだ雨季が残り、雨は降っていないもののどんよりした厚い雲がどこまでも広がっていた。
まだこの時間にはゲストハウスや飲食店は開いていない。ひとまず国境ゲートへ向かうソンテウに乗って(50〜100バーツ)、付近を探索することにした。

国境付近にある鉄条網。
奥に見える家屋にはミャンマー人らが暮らしている。

バンコクでさえ初めて訪れる私にとって、この街で目に映るすべてのものが新鮮だった。
島国にでは見られない陸続きの国境。頭上に野菜やお菓子を入れた籠を載せて売り歩く女性たち。大量の荷物や人を載せたピックアップトラック、ハイエースが途切れることなく行き交う。その場にいるだけでも心拍数が上がっていく。

国境ゲート付近にあるセブンイレブン前に到着した後、付近にあるリムモエイ市場や鉄条網に沿って並ぶ商店を見て回った。市場には宝石類や衣服、その他雑貨店が密集しており、退屈そうに店内で座っていた女性によれば宝石店ではミャンマー原産の翡翠からアフリカのものもあるとか。 


国境付近でキンマを勧められた。
隣で一緒に売り歩いていた女性はロヒンギャだという。


昼過ぎの時間となり、予約したゲストハウスに到着。
バスの疲れからこの日は休みつつも、「さて、明日からどうなることやら」と苦悩する。全くの無計画というわけではなくいくつか訪れるたい候補はあるのだが、なにせどこに行くとしても突然訪問することになる。

ひとまず、最初の数日はミャンマー関連のお店を回り尽くすことにした。
ほとんど計画なくここまで来たのは自分自身の選択ではあるが、「この先どうするのか」という自身への問いと不安感が常に心を圧迫してくる。自業自得でしかない。


ミャンマーを描き続ける画家との出会い


反軍政派の人々もよく利用するというカフェで。
なんと、トーストはサービスしてくれた。


最初に目をつけたレストランはゲストハウスから近いところにあり、2度目に利用したときに思い切って店員に話しかけた。英語とメモに書いてきたビルマ語を並べ、
「現地の状況を伝えるために日本から来ました。PDFやカレン軍の関係者を探しているのですが、知り合いにいませんか…」と伝える。

いま振り返っても愚かな行為でしかないが、こうして体当たりするしか方法はない。それでも英語が分かるという男性店員は、真剣に私の話を聞いてくれていた。男性は中にいた女性店員と何か会話を交わして、「確かにそうした人たちはいるが、教えられない」と答えた。
そう簡単に事が進むわけがないが、行動に移したことで話しかけていくことに対する壁が次第に消えていった。

それ以降もミャンマーに関連したカフェなどを回っていく。数回目に訪れたのはメーソートの街でも衣服や携帯店、その他様々な商店が立地している中心街のような場所にあるカフェだ。ミャンマー式の油が多く入ったカレーと砂糖たっぷりのコーヒーを注文後、またもや体当たり式に聞き込みしていく。ヒジャブで身体を覆い20代と見える若い女性は、私の話を聞いた後少し困惑しながらその場を離れ他の店員に相談していた。

「厳しいかな」と思いつつも時折「ちょっと待ってね」と合図してくれるのでドキドキしながら返答を待つ。
すると、暫くして店内にいた40〜50代に思しき男性を紹介してくれた。ピョー(仮名)と名乗る男性は、一緒のテーブルに座るよう招かれ、挨拶すると英語も話せるようでスムーズに会話が始まった。当然、最初は私の素性を知るべく様々質問された。
ミャンマー情勢に関心があること、関係者と繋がりたいこと、今回が初めての訪問であり過去の実績などないこと。だが、パスポートは見せたが偽のプレスカードすらミャンマーの場合ない方が良いと判断していたので、私の身分を証明するものはなかった。

私たちの距離を近づけたのは偶然にも、過去にメーソートを訪れていた日本のフリージャーナリスト・山本宗輔さん(著書:「ビルマの大いなる幻影」)だった。来日したこともあるというピョーさんは福島を話題にあげたので、行ったことがあると伝えると「日本の知り合いに福島を取材している人がいる」と10年前に撮ったというツーショット写真を見せてくれた。

宗輔さんとは共同通信の記者に同行して福島県浪江町や双葉町を訪れたときに2度ほど面識があった。(私が宗輔さんから知り合い認定されているかは不明なのだが)
私は宗輔さんが撮影している様子の映った写真を持っていたので、それを見せて話が盛り上がる。

市場を案内してくれたピョーさん

ピョーさん自信は画家である。ミャンマーで起きている悲惨な状況や、過酷な暮らしを強いられている人々などを絵として表現し国内外に発信する活動を行っていた。
実際に複数の絵を見せてもらったが、繊細なタッチで彩られた絵は現地の悲惨な状況をスッと想起させる。
人々の苦難や惨状を描いたものもあるが、子どもたちの笑顔や文化面に焦点を当てたものも多く決して悲観的な表現だけではない点が印象に残った。会うたびに新しい絵の下書きを見せてきて反応を聞いてくるので、絵を描く頻度やスピードも早い。なお、NHKや東京新聞等でも紹介されているので参照いただきたい。

暫く話したあと、ピョーさんはKNUやPDFの知り合いはいないが、メータオクリニックというNGOで働く日本人女性がいるが知っているかと尋ねてきた。メータオクリニックのことは知っていたが、当然知り合いなわけではない。今度一緒に会おうという話になったあと、連絡先を交換してピョーさんは自宅へ帰っていった。

私自身はピョーさんと別れたあと、元々向かう予定だったAAPP(ビルマ政治囚支援協会)の事務所へ足を運んだ。ピョーさんからも正確な場所を教えてもらっていたので迷うことなく辿り着いたのだが、何やら様子がおかしい。事務所とみられる建物は屋根がなく筒抜けの状態となっており、建物の前に停められているトラックには大量の荷物が載せられている。
奥の方に複数の人影が見えたので敷地内に入り、「ここはAAPPの事務所で合っていますか?」と尋ねる。
やや太り気味の男性が作業中の手を止め、「そうだが、先日火災が発生して新しい場所へ移動しているところだ。見て確かめてみると良い」と言い残し、淡々と撤収作業を再開した。

階段を上がって覗いてみると、家屋の木材が焼けて黒焦げになっていた。本来2階には展示物が掲示されているはずなのだが、屋内は間抜けの殻状態。「なぜこうなったのか」と聞いてもよく分からないという返答だった。
続けて男性たちは「焼けた建物の写真を撮るのはダメだ。あと、反軍政関係者は知らない。じゃあ、もう行くところだから」と答え、早々と車に乗り込み新オフィスへ資材を運びに立ち去っていった。

ここなら何か情報を得られると考えていたが、運が悪すぎる。茫然自失状態となり、トボトボとゲストハウスの帰路についた。

アジアハイウェイ1号線。
色褪せた「WELCOME TO TAK THAILAND」の看板が見える。

現地で働く日本人女性医師 「私たちは当事者ではない」


翌日、ピョーさんから電話が鳴り再びカフェで会うことになった。先日話していた日本人女性を紹介してくれるという。とあるお店で待ち合わせし、マウンさんと先に合流して女性を待つ。私にとっては日本を発って現地で初めて出会う日本人だ。待ち合わせの時刻を数分過ぎた頃にその女性は現れた。

高梨さん(仮名)は、メータオクリニックというカレン女性が立ち上げた医療系NGOを支援するメータオクリニック支援の会(JAM)から派遣されている医師だ。
メータオクリニックは1988年にカレンにルーツを持つシンシア・マウンさんによって立ち上げられた。それから現在に至るまでミャンマーから逃れたり、タイで暮らすミャンマー人たちを無料で治療している。
JAMについては、メータオクリニックの活動に賛同し支援の必要性を感じた日本の男性医師によって創設されたと伺っている。

メータオクリニックのスタッフは医療系で約160名、その他学校運営に関わる約150名に至る人々で成り立っているとのこと。1日の来院数は200〜300名ほどで、年間10万人を超える人々が利用している。メータオに来院する患者の病状は感染症を含め様々だが、実際のところ特定に至らず不明なものも多い。一因として常備されている器具が不足していることが挙げられ、メータオで治療しきれない人々はより大きな病院へ移動させるとのことだった。あくまでも基本的な治療活動しかできないというが、クリニック敷地内は日本のスーパーマーケットくらいには広く、産婦人科や眼科など様々な診療科で分けられ配備されていた。

実際、私がよく滞在していたミャンマー人集落に住んでいた男性も心臓が痛むというのでメータオクリニックへ足を運んでいたので、国境付近で暮らすミャンマー人たちにはその存在がよく知れ渡っているのだろう。地雷で負傷した人々や戦闘で負傷した兵士たちも利用するという。高梨さんによれば、ミャンマー軍の兵士や軍関係者が来ても治療するのかという問いに対して、イエスと返答するスタッフもいたそうだ。

案内していただいたメータオクリニック敷地内にて。


私の目的や素性を一通り説明したあとに彼女から発せられた数々の言葉は厳しいものだった。

「私たちは、当事者ではない。それに現地にいる人は、戦いたくて戦っているわけではない。そうした状況に対して、外部の者が興味本位で行くのはどうなのか。メーソートで空気だけ味わうこともできるわよ」

頭が痛い。
こうした言葉に対して、何の実績もない私が持ち合わせる論理的意見など皆無に等しい。
さらに追い討ちをかけるように「情報が大事ですよね」と告げられた。なんら人脈なく、大して情報を揃えていないことを見据えてのことだろう。もちろんこれはほとんどの人が思うところなのかもしれないが、面と向かって放たれたこれらの言葉に対して、正直むかっとせずにはいられなかった。私も人生賭けてここまでやってきた。
だが、国境の街で医療活動を続けてきた現場の声はズシリと私の胸に突き刺さる。歯痒さを覚えつつも、彼女の重い言葉を噛み締めながら耳を傾けていた。

ー後日、高梨さんから夕食の誘いがあった。
そのときの会話においても、記憶に残る言葉は多かった。

「パスポートがあるってのはすごいことですよ」
「(その人が求める)幸せとはなにか。人は結局のところ、どこかで自分のために行動していると思います。あなたは他者のためですか?」

ジャーナリストについて、わたし自身猜疑心を抱く部分があるのも事実だ。自分の知りたい、見たい、聞きたいという欲求から始まりそれを伝える、伝えたいとなるのがジャーナリストの一連の流れと認識しているが、それによって現地にいる人たちの何かが決定的に変わるということはほとんどない。
大義の旗を振りかざすとすれば民主主義の根幹であるとか権力の監視、少数の声を拾いあげるなど様々挙げられるだろう。もちろん日本国内においてはこうしたメディアのおかげで我々は鮮度の良い情報を取得できるし、それに応じて社会が変化を起こすこともある。だが、紛争地や難民取材に関していえば、食糧や生活品を支援するNGOや医師のように直接的な支援行為ではないので「他者のため」と胸張って言うことは難しい。(少なくとも今の私は)
敢えて言えば、きっかけを聞いたときに好奇心や承認欲求といった野心めいた自我を否定するジャーナリストを信頼することはできない。
とりわけ、現代はインターネットやスマートフォンが普及し取材対象者であった人々が自ら発信することも容易くなった。そのような状況下に伴い、国内はもちろん外国人ジャーナリストの意義は再定義されているのだろう。
私はこの高梨さんの問いに対して「両方じゃないですかね」と答えた。それ以上のものはないし、これが本音だ。

以降、高梨さんからは移民学校に寄付をする際や、メーソートで暮らす人々のなかでも最下層に位置するという集落を訪れるときに声をかけていただいた。

移民学校にて、昼食を摂る子どもたち。
内容はジャガイモと少量の鶏肉をカレー風に煮たものと白米。

とある日、高梨さん他2名のスタッフと合流しメーソートにある大型スーパーマーケットで卵、豆、魚の缶詰など寄付品を購入。約1万バーツの予算で、スーパーに並べられた価格表示と睨めっこし計算する姿が印象的だった。

荷台に食料などを積み込んで載せたあと、メーソートの街から車を2時間弱走らせて目的の移民学校へ到着した。
学校周辺は丘陵地帯でトウモロコシ畑などが一面に広がっている。景色は絶景だがタイの辺境という印象で近くには商店など一つもない。時折、ピックアップトラックの荷台上でギュウギュウ詰めに乗り合う人々が通り過ぎるくらいだ。
これらのトラックに乗った人々が本当にそうなのかはさておき、タイで建設や土木、ゴミ収集などの3K(きつい、汚い、危険)にあたる仕事に従事せざるを得ないミャンマー人は多いという。
タイで働くミャンマー人は全国各地にいるが、多くの人は最低賃金レベルで労働していると言われている。とはいえ、「ミャンマー国内よりはマシ」という点で妥協しミャンマー国内に住む親族に送金している者も多いようだ。


移民学校周辺の風景

校内に入ると、校舎を囲むように生い茂った竹がギラギラと肌に突き刺す陽光を遮っている。敷地内には家屋もいくつか連なっており、ここで生活している人もいた。
この学校には約100名〜150名の子どもたちが通っているという。教室の中から不思議そうな顔でこちらを見つめている生徒たち。教室内に入ると「ミンガラバー」と元気な声を揃えて挨拶してくれた。一緒にいくつかのミャンマー語で会話したり、カメラを教えたりして親睦を深めた。

生徒たちの時間割。
語学はミャンマー語、英語、タイ語の3種。


2校目に回った移民学校に通う子どもたちの寮に
寄付した品々。

最初の移民学校に1時間弱ほど滞在後、道中のレストランで昼食を済ました。次は中学から高校生くらいの生徒が集まる移民学校へ向かった。その学校には各地から300名ほどの子どもたちが通っているが、クーデター後にその数が膨れ上がったという。
それに伴い、寮として利用していた部屋をいまは教室として活用している。近隣に住む生徒たちは送迎バスで通っているが、遠方で暮らして通うことが難しい子どもたちには寮が用意されている。今回は学校の様子を視察したのち、寮で暮らす子どもたちに食糧を寄付しに行った。

寮へ向かいながら、18歳となるカレンの少年が私にスゴーカレンとポーカレンの違いを丁寧に説明しながら案内してくれた。寮といっても、高床式の家屋にドミトリー式で雑居する簡素なものだ。約50名の生徒が一緒に暮らしているという。

どちらの学校においても笑顔が多くフレンドリーに接してくれた子どもたちだったが、祖国や故郷から離れたタイの山奥で暮らすという感覚はどれほどのものか。そんなことに思考を巡らすこともない年代かもしれないが、少なくとも先進国と呼ばれる島国出身の私にとっては測り知れない境遇である。彼らが成人したとき、ミャンマーはどうなっているだろうか。戦後から混沌とした時代が続くミャンマーには未だ明るい出口が見えてこない。


メーソートでも最下層レベルに位置する人々が
暮らすという集落。

別の日に訪れたのはメーソートの街からそう遠くない場所に位置するミャンマー人集落だ。アジアハイウェイから田園地帯が広がる景色に混ざり、舗装されていないボコボコ道を車で突破していく。
集落付近に入ると、家畜として収入源にしているという牛たちに出迎えられた。これらの家畜をマレーシアやフィリピンに輸出して生活費を工面しているという。

集落の家屋はほとんどが手作り感満載のカレン風高床式のものだ。屋根は鉄板で覆われたバラック小屋が多い。
今回は同行したスタッフが個人的に支援している人々に2000THBほどのガスタンク一式を渡すことが目的だ。月々発生する数百バーツのガス費は自分たちで賄えるとのことで、初期費用のみ支援するという。
それにしても、メータオに勤めて支援活動するに留まらず個人的な活動も行っているスタッフもいるということは、NGOなどの支援が行き届いていない人も当然多くいるということだ。

家屋のそばに設置されていたかまど。

訪れた家屋に住んでいたのは70歳前後に見える老夫婦と40歳前後と思われる男性2名。皆身体を思い通りに動かすことができないという。
家の中に入ってひと通り内見すると一応電気は通っているものの、寝具もままらなず水は井戸水を引っ張ってきている。衛生面はほとんど整っていない印象だった。
それでも一番に出迎えたおばあさんは、笑顔で私を抱き寄せて挨拶してくれた。
振り返れば、彼らの今の生活やここに至るまでの過程の話を聞けば良かったと思うが、そのときはいきなり私からあれこれ聞かれてもと考えてとりわけ突っ込んだ質問はせずに留まった。

以降も高梨さんには地方紙の特派員に繋げてもらったり、国内で開催されたピョーさんの絵画展などを誘ってもらったりしていただきとても恩を感じている。同時に、当時頂いた現実的な言葉たちはいまも私の脳裏から離れず貼り付いて繰り返し問うてくる。現場で働き、ミャンマーの人々の厳しい状況を知っているからこその言葉を易々と忘れないようにしたい。

ピョーさんはその日以降も頻繁に夕食やカフェに誘ってくれ、SIMカードを購入できるお店やこの辺りは夜ドラッグをやっている輩がいて危ないとか、荷物を盗まれないようにしっかり待てとか、メーソートの街を様々紹介してくれた。
そうした優しさを見せる一方、警戒心が強く情勢の話になると小声になり辺りを見渡して「しーっ!」と私に注意する場面も多々あった。
目力が強く、鋭い眼光で語る彼の表情からは混迷する故郷や苦難を強いられ厳しい環境に置かれる人々を憂う想いが溢れているようにみえた。メーソートでは様々な友人や知り合いもできたがピョーさんは私にとっても信頼できる人となった。

なお、当noteはあくまでも私のブログ記録のため、本人たちに同意を取って書いているわけではありません。そのため、仮名を使わせていただいております。

次回もメーソートでの出来事(主にミャンマー人集落での暮らしやPDFやKNUとの交渉が上手くいかなったことなど)を書きます。

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