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「18歳の羅針盤~大海へ漕ぎ出せ!~」

(はじめに)
2020年度の大学進学率が54.4%に達し、過去最高を記録したそうです。
2009年に初めて過半数を突破してからも、確実にその数字は上がっています。ならば、大学に進学することは「当然」なのでしょうか?そんなことは決してない。大学に行きたくても、この経済環境の中で「行けない」学生もいる。まだ、自分の「進路を決めかねている」学生もいる。大学進学より「他にやりたいことがある」学生もいる。しかし、この“過半数”と言う圧倒的な数字を前に自分の夢や希望を言い出せない、踏み出せない若者も多いのではないでしょうか?そこで、“大人”の皆さんにお願いです。
貴方の18歳時点を振り返ってきただき、「もっと他にもこんな道があったのでは?」であるとか「自分は、その時点では進学しなかったが、決して間違いではなかった」であるとか、様々な経験談やアドバイス、さらに後悔や希望などについて、忌憚の無いご意見を伺うことが出来ればと思っています。いわば「18歳の多様性」「18歳のダイバーシティ」についてです。
そして、ここで、そのご意見をご紹介させていただき、これから18歳になろうとする若者たちの“羅針盤”の一つになればと思っています。

「日本って、ホントに周りのことを気にしすぎますよね。そんなタガを外してみませんか、と言うことかな。言うなれば、誰も着てないようなTシャツを着るようにしましょうか、ですかね!?」

そう言って、思い切り口を開け、笑われたのが、Tシャツが正装と言う社会起業家の本川誠さんです。

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「地域課題解決×事業」という掛け合わせで、今、1g1円でお惣菜を提供するサービスや、放課後子どもたちが安全に安心して学べる・遊べる居場所「しゅくだいカフェ」、さらに環境にも配慮したエシカルなハウスクリーニング事業などを手掛けておられます。しかし、この本川さん、18歳までは、今の優しい笑顔からは想像できない“札付きの悪”でした。そのキッカケは、小学生時代の「イジメ」。「あいつ、少し変だぞ」と言うだけでイジメの対象になったのです。子どもたちは、時に残酷。そこで、当時の誠君は、こう考えたのです。

「二度とイジメられたくない!ならば、イジメられる側からイジメる側に回ろう!!」

本川さんは当時をこう振り返ります。

「暴力をふるう。暴言を吐く。悪いことは全てしましたね」

そうなると、教師からは目を付けられる。理不尽なことで叱られる。ある種、教師側からイジメを受けることになる。教師への不信、ひいてはそれが大人の不信へと広がっていく。
そうした経験を重ねて本川さんは、高校時代には、いっぱしのワルへと“成長”して行ったのです。

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その悪行の数々は、ここで詳らかにするには、流石に憚られます。それほどの悪行。結局、高校時代は計3回の停学処分を受け、卒業取り消しの一歩手前の状況に追い込まれたことも。しかし、この停学の間に始めたガソリンスタンドのアルバイトが、本川さんの眠っていた才能を開花させるのです。

「ガソリンスタンドには“油外”と言う専門用語があるんですが、ガソリン以外の、例えば、洗車だったり、タイヤ交換、オイル交換などのことをそう呼ぶんです。その“油外”の売り上げを一時間当たりでどれだけあげたかのグラフがお店の中に貼られるんですよ。この“油外”の売り上げが高ければ高いほど・・・モテるんですよ」

そこで、当然、若き本川さんは・・・

「めちゃくちゃ頑張って、売れる先輩をよく見て、真似をして、勉強して、礼儀正しさとか、挨拶とかもこう練習して、半年ぐらいかかったんですけど1位になった。すると、やっぱりちゃんとモテるんですよ。これは楽しいし、それまで人から褒めらることもなかったし。さらに1年ぐらい経った時に、新店を出すので、『アルバイトリーダーで行ってくれ』って。そこでも、当然、モテる。さらに接客技術を磨くと、ガソリンスタンドでの給油作業や販売トーク、接客の仕方を審査するコンテストで、2年連続全国優勝しちゃって」

そんな時、こんな“事件”が起こるのです。

「僕はたまたまいつも通りバイト入っていて、『いらっしゃいませ!』『オーライ!オーライ!』と全国一のサービスと、満面の笑みを、いつもの通り見せていたら、その車の窓が開いて、顔を見ると、親父とおかんやったんですよ。おかんは、号泣していました。僕の姿を見てね。おかんを何度も泣かせてきたけど、感動して泣かせたのは、これが初めてやったね。こっちは、恥ずかしくて仕方なかったけど。でも、僕は、ずっと人に迷惑かけて、大人から怒られることしかなかった。大人にいじめられるとか、怒られるかとかしか体験してこなかった。それが、こんなにも大人に、社会に求められる経験などしたことがなかったわけですよね。そん時、僕は、ただモテたくて頑張っていただけなんですけど。仕事って頑張っていたら、こんなに周りが変わるんだ、自分を見る目や、扱いが変わるんだっていうことを初めて知りましたね」

何とか無事高校卒業をして、社会に出てから、本川さんはこう思いました。

「なんか小さい小山でもいいから、やっぱり、自分の山を登りたいというか、小山の大将になりたいなと思って。独立したいなと思い始めたんですよ。じゃぁ、何で独立すればいいんだろうかと思って、あらゆる仕事を見て回ろうと、合計23個のアルバイトを経験しましたね、およそ3年間で。結構あらゆることやりましたよ。サービス業が多かったかな。ガソリンスタンドもやったし、カラオケボックスとか、居酒屋とか、ダイビングショップとか、ティッシュ配りもあったし、夜中に線路のネジを締めるみたいなのもあったし、死体沈めるとかもやりました、ホルマリンに死体を沈めるんです。あれ、時給が高いんですよ。でも、独立出来る仕事を探していたので、いかに時給が高くても、あるいはいかに楽しい仕事であっても、独立出来そうにない仕事だと分かると、次を探すんです」

そこで、本川さんが出合ったのが「新聞販売」と言うお仕事。ここで彼の接客能力であるとかコミュニケーション能力、さらに行動力が遺憾なく発揮され、彼が店長を務める店は地域一番店へと成長し、2008年についに独立。
そして2020年には新聞販売店を卒業して、地域課題解決に特化した会社を立ち上げるのです。

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何とも、ジェットコースターのような人生。そんな経験を踏まえて、今の18歳の若者にどんなメッセージを届けたいですか?とお聞きすると、本川さんは、こうおっしゃいました。

「もっと周りに、迷惑をかけて生きろ!ってことですかね。」

それは、どう言うことですか?

「日本の義務教育って、“同調性”というか、みんな横並び、同じようにと言うことを求めるじゃないですか。飛び抜けたら、イジメられたりとか、なんか先生からも『あんまり目立たん方がええよ』みたいなことを言われて、要は個性を押さえつけるような教育を18歳までさせられるんですよね。しかし、社会に出た瞬間、『個性が無かったら、めちゃめちゃ生きづらいよ!』みたいな世界に放り込まれるわけじゃないですか。これ、おかしいですよね。18歳まで自分を抑圧することに慣れて、周りに合わせること、空気を読むことに慣れれば慣れるほど、社会で生きづらくなっていくと言う“非対称性”みたいなのが、凄く可哀想だなと思うんですよ。だから、自分たちも周りと違うことを認めて、そこを自分で褒めて、自分で磨いていくということを、若い頃からやっといた方がいいのにな・・・とは思いますね。なんで、私だけこうなんやろ、と悩む、傷つく、しんどくなる、って、実に無駄なことだと思うんですが」

そして、こうまとめられました。

「18歳って、社会に出る、あるいは大学に行くでもいいんですけど、一旦それまでの価値観をリセットするタイミングというか、思いっきり転換期になる歳だなと思っています。とにかく人と違っていいんだとか、人と違う自分を許す。そして、自分と違った周りの人も許す。なんか今まで、学校生活で大事にしてきたもの、と言うか大事だと思われてきたものを一旦リセットしないと、この18歳以降、めちゃくちゃ生きづらくなる可能性があると思っています。ですから、めっちゃ大事な年だと思います。」

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18歳、それは、竹の“節”のような年齢なのかもしれません。
伸びやかに、しなやかに、あなたの人生が、今後、折れない“節”を作る時。
「私は、私でいい」
今一度噛みしめたいと思います。(了)

※ 参考:


「大学を退学する直前。2月か3月の上旬か、それくらいの時に、お母さんが放送大学のパンフレットを持って来てくれたんですよ。そしてお母さんは、こう言いました。『あんたは、誰かとすぐ自分を比べてしまうやろ。それは、周囲にあんたとよく似た人がおるから比べてしまうんや。けど、ここは、比べる対象になる人なんかおらへん。おっちゃん、おばちゃんしかおらへんし。そして何より自由に出来んねんって。あんたは、一回大学に入ってるから編入扱いになって3年で卒業出来んねんて。あんた心理学、学びたい言うてたやろ。ここでも、心理学も学べるんやで。お金も面倒みたげる。バイトも、そんなにせんでええから』。もうその言葉を聞いて、私は号泣でしたね」

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そう話すのは、岡田花枝さん。1990年7月、大阪松原市に生まれ、現在31歳。就労コーディネーターや、キャリア相談員として人材開発を行う団体で働いた後、現在はフリーランスとしてキャリアコンサルタントとして活動し、その傍ら、自らの夢を実現すべく、今、起業の準備を行っています。
しかし、18歳前後の彼女は、荒れ狂う海に浮かぶ小さな難破船のような状態でした。まず、大学進学。高校3年生になって、「理系に進むんだろうな」と言う漠然とした針路は見えていたものの、具体的な学部・学科までは想定できないでいましたが、大好きな生物の先生の授業を受けて、こう閃いたのです。

「お母さん!私、見つけた!私、“カタツムリ”の研究がしたいねん。高知に、そんな研究が出来る大学があるんやて!!」

息せき切って、そう母親に伝えたものの、母親の反応は・・・

「『何言ってんのあんた』みたいな反応でしたね。『カタツムリの研究って、何?』って。『高知まで行って、カタツムリの研究するって、あんた、何考えてんの?それで仕事どないするの?』って。母親から、初めて否定されました。今までそんな頭ごなしに否定されることなかったんですが」

そこで、花枝さんは、こう啖呵を切るのです。

「もうええわ!私、もう受験しやん。大学、行かん!」

とは言うものの、今度は家庭科の先生に「家庭科の先生はいいよ」と諭されて、前言を撤回。今度は、家政学部を目指すことに。これには母親も大いに喜びました。そしてAO入試で受験するんですが、あえなく、不合格に。
これに花枝さんは・・・

「もう、いいっす!大学行きません!!って。もうブチ切れですよね」

18歳のパワーは物凄い。時に負のパワーであっても。実際、受験勉強を放棄し、高校在学中からアルバイトを始めます。親も学校も、そんな彼女を黙って見守るだけ。そして、迎えた卒業式。進学校だったことから、友達はほぼ全員大学へと進学しますが、花枝さんは、何ら臆することなく式に出席。周囲からはこう言われたそうです。
「花枝らしいね!」「自分を持ってるよね!」「カッコいいね!」と。
確かに、その後、アルバイトとして働いた飲食店は楽しかった。同僚たちも若くて、先輩たちからも可愛がってもらえた。しかし、その高揚感は僅か数か月しか続かなかったのです。
SNSを見ると、大学に進学した友達の楽しそうな写真や近況報告。花枝さんは急激に“落ち”ました。まさにドン!と。「私は人と違う」と言う自信が、「私は何もない」「私は、何者でもない」と、大きく変化したのです。
この頃から、花枝さんは病み始めます。

「完全にストレスです。食べてなかったです。ご飯が食べられなくなって。野菜ジュースを飲むしかしてなかったです。それ以外は、ほんまに食べてなかったです。だから、ガリガリで。38キロ。寝られないし。ずっと泣いていましたね。自律神経失調症でした。このままだと鬱になると」

しかし、ここからが花枝さんがユニークなところ。「鬱って何?自律神経失調症って何?多分、それは自分のことが分からなくなっているから」と分析し、自分のことが分かるようになりたい、心理学を学びたいと言う思いが、ムクムク、ムクムクと湧いてきたのです。
では、どうすればいいか?花枝さんが頼ったのは、前述の高校の家庭科の先生でした。先生はこう教えてくれたのです。「高校を卒業した後でも、その高校の推薦があったら、今一度AO入試で受験できる大学もあるよ」と。そこで、花枝さんは、再び前言を撤回、大学受験をし、今度は無事、合格。もちろん親も大喜びです。そして、一年遅れではありましたが、大学へと通い始めるのです。しかし、そこで、花枝さんは、こんな光景に出会ってしまうのです。

「私が憧れていた無垢で元気な新入生がキャンパスに溢れているんですよ。私より1歳年下のね。それを見て、私は“違う”と。あれはもう出来ないと。そんな子たちの仲間には入れないな、と。そうなると、同じような仲間たちとつるむしかなくなるんですよね。一方で、他のみんなはキラキラしてくるし、心理学の勉強もちゃんとしているので、なんか凄く大人になっていくし。どんどん差が開いていくのか分かるんですよ。となると、大学の門がくぐれなくなりだして、次第次第に、大学に行けなくなって。あれだけ、多くの人たちの助言や支援もあって、ようやく大学に入ったにもかかわらず、結局、退学を決めたんです」

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(写真:二十歳の頃の岡田さん)

その後、花枝さんは完全に“引きこもり状態”に。

「全部バイトも辞めて。生きているのか、死んでいるのかも分からへんような状態ですね。部屋のカーテンは、もうずっと閉めたままま。何してたのかな?泣くか、ボーっとするか、だけでしたね」

その状態は2か月ほど、続いたと言います。それでも母親は彼女を見捨てませんでした。

「もうほんまに母親には感謝しかありません。私への態度を変えなかったんですよ、全く。もうずっと一貫して、ええ感じの距離を保ってくれていました。そして、8月ぐらいかな『成人式があるから着物を買いに行こう』と」

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そして、何とか、この着物を着て成人式に出席することが出来ました。さらに、その暫く後に、母親が「放送大学と言うのがあるよ!」と花枝さんに紹介し、冒頭のエピソードに繋がったのです。
花枝さんは、今度は、続けることが出来ました。放送大学は、確かに一人で学べると言うのがメリット。しかし、一人で学び続けると言うのは、それはディメリットにもなりかねない。そう尋ねると・・・

「目的が明確でしたからね。私のことを知りたい、心理学を学びたい、と言う目的がね」

そして予定通り最短の3年で卒業。その後は、その心理学の勉強を活かして人事育成の分野でキャリアを積み、今に至ると言うわけです。何とも波乱万丈の青春時代。
さて、そんな花枝さんは、今の18歳の若者に何とアドバイスをするのでしょうか?

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「ええんちゃう!って。そのままでええんちゃう!って言いたいですね。無理に個性みたいなものを一生懸命出さなくてもええよって。若い頃は、個性って、“目立つ”ことのように誤解されて、目立たなかったら、個性がないみたいな感じに捉える人が多いと思う。SNS上では、そんな目立つような投稿が溢れているけれど、それはSNS上だけのこと。だから、言いたいのは、そのままでいいんやで、君は!って。そう言いたいですね」

花枝さんは、そう言って、笑いました。
そして、「では、18歳の自分に、声を掛けるとしたら?」とお聞きすると、こう答えられました。

「よく、頑張ったね!」

18歳。きっと誰もが、頑張っている。もがいているだけかもしれないけれど、悩んでいるだけかもしれないけれど、頑張っている。それは、大人も認めてあげなければならないかと思います。我々大人が出来ることは、ただ、寄り添うことだけなのかもしれません。(了)

「とりあえず、わからないけれど、やってみよう!と言うことでしょうか?『失敗したな』と思う経験も、『これは、自分に合わなかったんだな』ってことが分かったと捉えれば、また一つ、進むことが出来ると思うんですよ。その失敗も、捉え方次第で、自分の理解が進む。自分を理解できるようになると、生きやすくなると思うんですよね、やっぱり」

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そう話すのは、「ホームレス状態を生み出さない日本にするために」と言うことを事業目標とする認定NPO法人Homedoorの広報担当、谷野ちひろさんです。谷野さんは、1981年、広島で、高校の国語の先生の父と、小学校の先生である母との間に生まれました。現在は、この写真の通りの40歳。中学生までは、彼女の言葉を借りれば「友達とも仲良く、勉強もスポーツも、普通に頑張っていた“扱いやすい”感じの子でした」とのこと。
しかし、それが高校進学で一変するのです。

「ちょいちょい・・・停学とかも・・・ちょいちょい」

ちょいちょい停学!!(驚)
それは些細なことの積み重ね。朝、眠い。学校に行かない。勉強なんかどうでもいい。単位なんかもどうでもいい。だるい。つまんない。楽しくなんかない。なんで学校に行かなければならないの。ポケットベルが欲しい。PHSが欲しい。ミニスカートをはきたい。顔を黒くする、そうガングロ。そして、ルーズソックスをはく。いわゆる“コギャル”へと変身していったのです。

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友達も、いつの間にか、そうした子ばかりになっていました。
そして、ついに留年。高校二年生を、二度することになるのです。
しかし、その頃から、漠然とではあったものの、「あぁ、やっぱり学校にはちゃんと行かないと」「もう一回頑張ろう」と思った、その矢先のことでした。

「私、退学になるんです。校長先生に親が呼ばれて、『もう、ちょっと、預かれません、お宅のお子さんは』と言う感じでしたね」

キッカケは、体力測定で、実際は計測することはなかったものの、虚偽の申請をし、記録係にそれを書き留めるよう強要したこと。さほど、重大な事案とは思えませんが、それまでの素行が悪すぎたのか、彼女の高校時代は、
3年生の春で、突然途切れるのです。

「さぁ、頑張ろう!という気持ちになっていた時の退学だったので、流石に焦りと言うか、どうしよう?みたいな感じの気持ちでしたね」

しかし、結局、その彼女を救ったのは、それまで彼女がずっと悪態をついてきた“親”だったのです。

「『大検ってのがあるよ』みたいな感じで、親が教えてくれて。そう、今の高卒認定ですかね。で、そのためのスクールもあるよっていう感じで、そこに見学に行って、で、大検受験を決心します。まあ、親に対して、ずっと迷惑かけてきたなっていう気持ちがあって、もちろん、自分のためでもありますが、親を安心させないといけないな、と言う気持ちもあり、受けることにしました。」

まさに思春期。この時代は“ややこしい”。
谷野さんは、当時を振り返ってこう語ります。

「今考えると、恥ずかしいですよね。本当に、イライラ、イライラしてたんで。色々な本を読んで今振り返ると、ホルモンのバランスが崩れていたのもあったかもしれないなと思います。衝動性が凄く高いというか、自分の中に、“暴れ馬”を飼っている感じが、常にあったんですよね」

その時代を過ごしてきた多くの大人の皆さんは、共感できるコメントかと。
しかし、その後は、その“暴れ馬”を見事に飼い慣らし、当時の大検に合格し、さらに、浪人することなく、いわゆる東京六大学の一つ、法政大学の社会学部に入学します。
ところで、何故、この学部を選んだか。この学部のパンフレットには、こんな文字が踊っていたからだそうです。「働き方」や「犯罪」について学べる、実はこうしたことに当時から興味があったそうです。そして、もう一つが「家族」。あぁ、次第に繋がっていく。さらに、彼女は、大学進学後にはバックパッカーとして、世界各国を回ります。その一つにインドがありました。そこで、彼女は、こうした経験をしたのです。

「幼い兄弟がいて、その幼いお兄ちゃんが、さらに幼い弟をバシバシ叩きながら、働かせている様子を見たんです。私は、たまたま、今の時代の日本に生まれて、確かに、ちょっと色々あったけれど、お金とか、愛情とか不足なく育ててくれた親がいて、一方インドでは、そんな兄弟がいる。不公平だなっていう気持ちがずっとあって。ずっと。なんか、悔しいなみたいな気持ちがあって・・・」

と“貧困”に関しても興味を持ち始めるのです。どうですか?全てが繋がっていくのです。大学を出た谷野さんは、「人事」や「転職・就職」さらに「人の幸せ」をキーワードとするような会社や組織でキャリアアップを図っていきます。そして、多くの人と出会うことにより、“格差は再生産されている”と気づき、それを何とか防ぎたいと、今の仕事に就いたのです。
谷野さんは、自らの人生を振り返って、こう言います。

「“計画された偶発性”と言うことが、全てを表している感じがします」

この“計画された偶発性”とは、スタンフォード大学のジョン・D・クランボルツ教授によって提唱されたもので「個人のキャリアの8割は予想しない偶発的なことによって決定される」とし、その偶然を計画的に設計して自分のキャリアを良いものにしていこう、という考え方だそうです。とは言え、実は、難しいことはよく分からないのですが、筆者は、こう理解しています。「無駄な経験などない」と。
さて、谷野さんに、今の18歳の若者にアドバイスをするとしたら?とお聞きすると、こう答えられました。

「“The strength of weak ties”と言う言葉があります。弱い紐帯の強みと訳されます。普段、その日常的に関わってる人ではなくて、ちょっと離れたところにいる人、まあ、あんまり連絡を取っていない人とかと連絡をとってお話ししたりすることで、その人のキャリアにプラスになることが多い、みたいな研究があるんですよ。それが、凄く面白いなって。似たようなコミュニティの中で、似たような人たちとお喋りをするとか、ネットで自分が共感できる人たちの意見ばかりをずっと見ているとか、それだけだと、前に進まないですよね。違うコミュニティの中に飛び込んで行って、何かお話をしてみるとか、気になっているセミナーがあったら参加してみるとか、そういう、何らかのアクションをね、なんか、ちょっと違う輪の中に飛び込んで、アクションしてみるっていうことを、してほしいかなって思いますね」

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(認定NPO法人Homedoorの川口代表と)

では、最後に、高校時代に戻って、
高校時代の自分に何か声を掛けるとしたら?

「焦らないで、ですかね」

なるほど。傾聴に値する言葉だと思いました。
谷野さん!思春期の赤裸々なエピソード、語っていただき、本当にありがとうございました。皆さんも、キャリアを積み重ねる際の参考にしていただければ幸いです。(了)

※認定NPO法人Homedoor:https://www.homedoor.org/

「高卒の就職に関して、厚生労働省の参事官と喧嘩になりましたよ。このルールはどうしてこうなっているんですか?僕はこう思います!と言うと、その参事官は『これは、こう言う理由があってですね』と説明するもんだから、東大出身のあなたが言っても説得力がないでしょ!どうして高卒のボクの意見を聞いてくれないんですかっ!て。すると、その翌年ワーキングチームが出来たんですよ、高等学校卒業者の就職慣行の在り方をめぐってね」

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そう笑って話すのは、高校生に特化した、就職・キャリア支援を行う株式会社ジンジブ・代表取締役の佐々木満秀さんです。1968年生まれの現在53歳。(取材時点)そのキャリアは、実にバラエティに富んでいます。
高校卒業後、自動車部品の製造会社に入ったものの半年で辞め、運送会社に転職。21歳でトラックを購入し、今度は個人事業で運送業を始めます。当時、普通のサラリーマンよりもはるかに稼いでいたものの、この仕事を40歳代になった時に続けているイメージが出来ないと、23歳でそれまでの業界とは全く異なる求人広告会社に就職。そこでも瞬く間に頭角を現し、僅か7年で常務取締役に就任。しかし、今度はその会社が倒産。ならばと、1998年に独立し、翌年、広告や販売支援を手がける会社を立ち上げます。その後のビジネスは順調で業績も絶好調。いや、何とも忙しい人生。しかし、凄い勢いで走り続けると反動もあるもの。佐々木さんは、40歳代に入ってパニック障害や鬱を発症してしまいメンタルダウン。そこで「残りの人生は社会貢献に費やしたい」「若い世代に夢や希望を与えたい」「では、何をすればいい?」と悩んでいる中で、今のビジネスの構想が浮かんだそうです。

「高卒ってどうなの?って考えていくうちに、僕が高校を卒業した36年前と同じ状況。何も変わっていない。えっ!今でもそれをやってるのか?と言う感じで。例えば、僕らの時代、就職先は工場しかなかった。当時はそれが当たり前だと思っていたけれど、今もそう!こんなに産業構造が変わったにもかかわらず。そこで、こんなんあかんやろと思って・・・」

佐々木さんは、ただ変わっていないから、変えたかったわけではありません。高卒の若者にこそ日本を変えるパワーがあると期待をしているのです。

「何か新たな、まあ簡単に言ったら“破壊者”って言うか“イノベーター”が現れてこない限りは、日本は明るくならんやろと。そこで、僕もそうでしたが、高卒の子って、コンプレックスの塊みたいなものがあるんですよね。家が貧乏な子も多いですし、学歴とかでコンプレックス抱えがちですし、高校を卒業したら働くことが前提なので、卒業出来たらええんやと言う感じで、あんまり高卒の子って勉強してないんですよね。でも、そう言う子だからこそ、より挑戦が出来るんちゃうかなと期待してるんですよ」

確かに、期待したいし、実際、イノベーターになりえる若者もいるに違いありません。しかし、そうした若者を今探そうと思えば、大海の一滴、九牛の一毛、残念ながら、なかなか周囲には見当たらない。
佐々木さんには、今の18歳の若者の姿はどう映っているのでしょうか?

「モヤモヤとしてる子、めっちゃ多いですよね。それは、今のルールとか、今の社会の成り立ちとか、結局は“過去”に、過去の価値観や、固定観念に、ほぼ捕らわれているからなんです。だから高卒やったら、こ~や!とか、 大卒やったらこ~やって就職するもんや!とか、これが当たり前なんですよ。これを僕らは変えていくきっかけを作らなあかんと思っています。キッカケ一つで人って変わると思んですが、やっぱり子供への教育って親の価値感が大きいので・・・」

やっぱりキーになるのは親!佐々木さんに親御さんへアドバイスをしていただきました。

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「親の世代の成功体験とか価値観は、もう総崩れしてると思うんですね。良い大学に行ったから成功できるんですか?大手企業に入ったからどうですか?働き方も変わりました。そもそも、成功とかじゃない。結局、子どもが幸せかどうか。子どもが幸せならいいと思うんですよね。一番に、幸せを考えないと。じゃぁ、子どもの幸せって何か?それは、僕らの成功体験を押し付けることじゃなくって、子供が自主的主体的に選択した道を、極力支援してあげること。海外に行く子もいれば、地元で働く子もいる。企業への就職ではなく NPOのようなところで働く子もいる。そう言う色々な選択肢を認めてあげて、それを支援してあげること。成功とか失敗とかそういうことじゃなくて、自分で本当に考えて、意思決定できたんなら幸せだと思うんです。失敗しようが成功しようが、自分でやったことには悔いがない。結局、人生の幸せってそう言うことじゃないですか?」

それこそが、18歳のダイバーシティ。まさに、このコラムの趣旨はそこにあるのです。佐々木さんは、こうまとめます。

「やっぱり多様な文化、多様な生き方、多様な働き方、それを受け入れるって言うか、それを支援してあげるような大人にならなあかんと思います」

そして、高校3年生を対象にした企業の採用選考で、いわゆる「一社縛り」は、その多様性からかけ離れている、また現在の高校の先生が唯一“ハブ”になって、生徒たちに就職先をアドバイスする現状も多様性があるとは言えないと、佐々木さんのお話は展開していくのですが・・・そこはまた改めてご紹介させて下さい。
そして、最後に、佐々木さんに、こうお聞きしました。
「18歳の自分に、今、伝えることがあるなら、それは何ですか?」
佐々木さんは、こう答えました。

「幸せに生きてるぞっ!て」
                              (了)

※ 株式会社ジンジブ https://jinjib.co.jp/  

「今の高校生のイメージですか?それは、中学生レベルですわ!」

そう語るのは、大阪・東大阪市に本社を置く、創業70年の双葉塗装株式会社の代表取締役・深江裕宗さんです。2014年に学校側から依頼があり、初めて高校生を新卒採用致しました。
その後、合計で4人を採用して、途中で2人が退社、今も2人が働いています。離職率は50%。一方、2020年の厚生労働省の調べでは、高卒の就職者の3年以内の離職率は39.5%。データだけを見れば、この会社の方が上回っています。しかし、だからと言って、この会社に大きな問題があったかと言えば、そうとは言えない。それどころか、実に、涙ぐましい努力があったのです。このコラムでは、高卒就活生の皆さんの“頑張り”を、これまで何話か紹介してきましたが、今回は、受け入れる企業側の“頑張り”を、ご紹介出来ればと思います。

全員写真

(写真真ん中:深江裕宗代表取締役)
かつての塗装業界は、“技術”がモノ言う業界でした。“腕”さえあれば、我が物顔で職場にいることが出来ました。それだけに、人間性や礼儀などが問われることは、ほとんどなかったと言います。実際、25年ほど前に、今の深江社長は、新たな人材を採用しようと、100人を超す求職者と面接を行いますが、結局、誰一人採用にはいたりませんでした。社長の採用基準に達していなかったからです。その採用基準とは・・・

「心の良い人!気の良い人!!」

たったこれだけの基準だったにもかかわらず、採用ゼロ!
当時、社長が思う良き人材は、この業界に見向きもしなかったようです。
そこで、その後、親しくなった学校側の依頼もあって、高卒採用を始めるんですが・・・

「勉強と言うことが分ってない。例えば、計算が出来ない。あるいは、喋りが出来ない。その話の主語がありませんねん。ですから、ここ(職場)が、学校ですわ!小数点は理解してもらわなあかんので、小学校3年生や4年生の計算ドリルを買ってきてやらす。本を読ませて、この数行で一番言いたいことは、どれやろな?と言うことをやらせるんです。」

えっ!?それは入社前にですか?

「いや、入社してから!」

本当に、驚きの発言の連続でした。深江社長は、さらに熱く語ります。

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「挨拶をシッカリしろ!と言っても『おはよっす!』。いくら言っても伝わらないのであればと、挨拶の定義を作った。『相手に聞こえるくらいの大きな声で!語尾を上げて!笑顔を添えて!』、これらの基準が、一個欠けても、我が社の挨拶じゃないと伝えました。こうでもしないと分ってもらえないんですよ。あぁ、もう疲れます」

そこで、思わず、こう聞きました。何故、そこまでされるんですか?と。
深江社長は暫く考えた後、こう答えました。

「雇った側の責任です。・・・ただ、それだけ。・・・モノちゃうからね。犬猫ちゃうからね。」

あぁ、人を雇うとは、こう言うことなんですよね。まさに金言。
社長は、さらに続けます。

「入社してもらうその前にね、親御さんと食事会をします。ちょっとホテル行ってね。入社した後、嫌なことがあって、休む時もあるやろうけど、そこはケツを叩いて『行ってこ~い!』と言うて下さい。家族と会社で、この子を育てていきまひょっ、て」

では、そうして育てた高卒就職者たちは、成長されたのですか?

「やっと、主語が言えるようになったね」

そう言って、社長は笑われました。さらに、社長は「やはり3年はかかるよね」ともおっしゃっています。しかし、一番の苦労となると、さて、何でしょう?

「どないして育てたらええねん、と言うことですよね。アカンんもんは、アカン!と言わないとアカンねんやろうけど、僕らは、現場で、それこそドカ~ンとやられてきた世代やから、今の子たちには、どこまで、どんな風に言うたらええんやろ?どうなんやろ?と。そんなところから・・・四苦八苦ですよね」

と言うことは、社長も日々試行錯誤と言うことですか?そう尋ねると・・・

「一番の学びは僕!彼らが先生で、僕が生徒!彼らに分るように伝えるには、こっちが頭を使わねばならない、と言うこと。新入社員に学ばせてもらってる、と思ってます」

社員

では、これから高卒採用を始めようと思っておられる企業に、アドバイスをされるとしたら?

「雇用すると言うことは、“この子の一生を面倒みる”こと。だから見捨てない!今の部署でアカンかったら、違う部署に。それでもアカンかったら、会社の前をほうきで掃いて!とか。食堂があったら、食堂で、皆の“まかない”を作れ!みたいな、働き場所を作ったらなあかん。」

では、高卒採用の子たちが、たった3ヶ月で辞めていったとよく聞くように、すぐに離職していくことに関しては、どう思っておられますか?

「新卒の子が、何を悩んでいるかと言う本当のところを聞けていない、と思いますね。上辺のことだけじゃなく、その下に何が潜んでいるか、そこを解決しないと、辞めていきますよね、根本を聞き出さないと」

社長の場合は?

「聞き出しますがな。寄り添いますがな、常にね。最近はどうや?とか、ちょっと終わってからゴハン行こうか、とか。怒る時も真剣です。ガァ~っと、ね。でも『俺も高卒やけど、実際は中卒見たいなもんや。勉強もでけへん。お互いアホ同士や、ぼんくらや。肩肘はって生きんとこや』みたいな話もします。例えば、その子が嘘をついて、言い訳し出したら、『ちゃうちゃう!そんなどうでもええことにエネルギー使うな。嘘をついていました、と言う一言でええねん。じゃぁ次はどうすんねんと考える。そっちの方に向かって行こうぜ!』と言いますね」

深江社長は、会社の将来をこう描きます。「家業」から「企業」に変革する、と。生産部門、営業部門、商品企画部門のように組織化し、その部署のトップに、今の高卒社員たちが立ってくれれば、と。
そして、最後にこうお聞きしました。人を採用すると言うことは何ですか?

「なんやろなぁ~?その子の可能性を伸ばしていきたい、可能性を見つけてやりたい。それを見つけるのは、自分が成長しとかなアカンねんやろなぁ。結局は、自分の成長に繋がっていくのかな、採用って、人を介して」

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私たちには、まだまだ学んでいかねばならないことが、数多くありそうです。(了)

※双葉塗装株式会社:http://www.futaba-toso.co.jp/

「一つに決めて、『これだ!』と突き進める人は凄いと思うんですけど、僕の回りを見ていても、そんな人いないし。二十歳とかで、自分に向いている仕事のことなんて、絶対、分からないじゃないですか。僕の回りで働いている人も、本当にこれがやりたかったと言う仕事に就いている人とか、ほとんどいないですよ。そんなこと分かるはずもないのに、結構、今は、高校時代から『将来のことを考えましょう!』みたいな、『就きたい仕事から考えて、大学選びをしましょう!』とか、そういうのって本当にしんどいなぁ~って思いますよ。小さい時から『自分には何が出来るか、考えろ!』って、言われ続けると、僕は息苦しくなっちゃいますね」

そう話すのは、瀬川玄悟さん。1995年生まれの現在26歳。教育大学の大学院で学び、小学校の先生を目指しておられます。

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彼の話すこの内容は、今、キャリア教育を進める担当者にとってはショックなことかも知れませんが、実は、同じようなことをボクも感じていました。
まず、瀬川さんの学歴・職歴をご紹介しましょう。とてもユニークかと。
まず、高校は、中学の先生からは「進学校でも行けるよ!」と言われていたにもかかわらず、農業高校へと進学します。その訳は「楽しそうだったから」だそうです。

「進学校では、ずっと机に向かって勉強しているんでしょうが、僕が行ったところは、農業高校の食物系の食品科学。ここでは、大豆から味噌を作ったり、調理実習とかが週に2~3回ありました。僕は料理とか好きだったんで、ただ単に何か勉強とかするよりも、楽しそうだなって思ったのがキッカケですね」

農業高校にも「進学コース」と「就職コース」があります。瀬川さんが入ったのは「進学コース」。当然、大学も農学部系の学校を選び、進学するのかと思いきや・・・

「進学コースに2年生の後半ぐらいまではいたんですけど、いざ大学をどこにしようかなって考える段階で、やりたいこととか、行きたい大学ってのが、本当に見つからなくって」

でも、シンプルに「農学部に」と言う発想はなかったのですか?

「農業高校でも、農業生産、いわゆる酪農だったり、稲作だったり、そういう農業の生産に携わる“ザ・農学”と言うようなところで学んでいたら、アグリサイエンスとかバイオテクノロジーとかを学んでみたい、やってみたいとなったかもしれないですけど、ボクの学科は調理系と食物系とかばっかだったんで、例えば栄養士だったりとか調理師とかになりたいとかって人が多く入るようなところだったんですよね。でも僕は、めちゃくちゃ食物関係をやりたいと思って入ったわけでもなく、ただ単に面白そうだと思って入ったので、確かに、友達の中には専門学校に行って調理師になるとか、製菓学校に行ってパティシエになるとか、そういう人は割といたんですけど、僕は当時、お菓子を作ったり料理したりするのを仕事にしたいとは、特に思ってなかったので、そこでもないな~って」

大人の皆さん、この発言だけをもって、眉をひそめるようなことはしないで下さい。多分、こうした若者が数多くいるに違いないのですから。
瀬川さんは、そこで進学から就職へと進路を変更。しかし、いわゆる“積極的”就職ではなく、“進学と言う選択肢がないから”と言う“仕方なし”就職だったわけです。瀬川さんも、こう話します。

「行き当たりばったりと言えばその通りなんですけど、結果的にそういうことですね」

そして就職したのが、地元のJA。その理由は、当時、瀬川さんが興味を持っていた食育活動をJAが行っていたから。高校時代に瀬川さんも、ボランティアで、その活動に参加したこともありました。さらに、農業高校にはJAへの就職のルートがあったことから、すんなりと決まったと言います。しかし、ワクワクして入社したかと言うと、決してそうではありませんでした。

「まぁ、中学から高校に上がるような感覚でしたね」

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(写真:JA時代の瀬川さん)
かと言って、仕事がつまらなかったわけではありません。配属されたのは金融課。特に3年目は金融の営業を担当し、そこで農家の人たちと話すことは結構楽しかったと言います。しかし、そこも、3年目で退職するのです。

「なんだか先が見えちゃったと言うか。このまま働いて、30歳になった時点で、自分はどうなっているのかなって。今は良くっても、将来的に絶対仕事とかもしんどくなってくるし、先輩とかを見ていると、やっぱりノルマは厳しくなってくるんだろうなぁ、って」

そこで、彼が思ったのは、地域の“繋がり”について学んでみたいと言うこと。農家の方々が活き活きと暮している様子を見ているうちに、何故なんだろうと、学んでみたくなったと言います。そこで、社会人入学のルートがあった地元の短大を受験し、合格。さらに、短大に入学した時点で、四年生の大学に編入したいと考え、実際、短大卒業後には、公立大学の環境人間学部に編入を果たします。そして、今度は大学生として就職活動を行うんですが・・・

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(写真:大学生時代の瀬川さん)
「一応就活はしてたんですけど、もうなんか、本当に自分は何が向いているんだろうかと、悩んで。僕、何かになりたくて大学行ったわけじゃなくって、ただ興味があったことを勉強したい、普通になんか面白そうだなぁとか、勉強したいなって思って、大学に行っていたので」

実際、マスコミなどで面接試験も受けたそうですが『何か、違う』と違和感を覚え、その頃からジワジワ浮かんだのが『先生はどうだろうか?』と言うことだったのです。

「自分自身、結構勉強が好きだったので、そういう勉強の楽しさみたいなものを教えていけたらいいなって思ったのが一つ。あと、今、教育格差みたいなのが問題になっていますけど、それを解消出来れば、と思ったからです。僕は、農業高校に行きたくて行ったんですが、同級生の中には、ここしか入れなかったみたいな人も多くて。そこで、教師になって、小学生から基礎学力をつけてあげれば、ちょっとでも、子どもたちの可能性みたいなのを広げていくことができるのかな、と考えたので」

あぁ、ようやく繋がった。
こうやって話を聞くと、瀬川さんの経歴は、決して、ただの「回り道」とは言えない。瀬川さんにとっては「必要な経験」だったように思えます。
こうした経験を踏まえ、将来、瀬川さんが小学校の先生になったときには、子どもたちに、何を伝えたいですか?とお聞きしました。

「『どうにでもなるよ!』って言い方は、無責任なのでしたくないんですけど、一個、興味あることをまずやってみること、自分の関心ごとを大切にして勉強をしていきなさいと言いますね。『やりたいことやれ!』って言いますね」

そして、もう一言付け足した。

「自分もそうでしたが、何才からでも勉強をやり直せるようになるためには、最低限の基礎と言うのはしっかり身に付いてないといけないので、基礎学力は、子どもたちに絶対つけさせたいな、と思います」

若い皆さん!決して今からでも遅くない。今一度、学び直そうではありませんか!(了)

「この仕事を始めるまでは、私も、経済的に致し方なくて大学には進学せず、やむにやまれず“高卒就職”を選んでいるのかなと思っていたんですけど、そんなことは全く無くって、逆に、何かボ~ッと大学行っていた私より、よっぽどしっかりしてる!と思いますね」

そう話すのは、高校生向けのインターンシップサイトを運営している株式会社アッテミーの代表・吉田優子さんです。吉田さんは、2009年に上智大学の教育学科を卒業後、誰もが羨む大企業に就職したものの、ズッと思い続けてきた高校生の就職支援がしたいと3年で退職し、その後はこの道一筋。2019年には、今の会社を立ち上げ、数多くの高校生や、採用する側の企業の担当者から情報を収集し、高校生と企業との橋渡しをしてきました。
そんな吉田さんが、高校卒業後いち早く社会に出ていくことを決断した18歳の若者たちの現状をこう分析します。

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「確かに、キッカケは『そんなに勉強得意でもないし、やりたいこと、学びたいこともないから就職もいいかなぁ』と、その程度。しかし、次第次第に『よし就職するぞ!』と、前向きになっていく感じですかね。何か『学費がどうしても捻出できないから』と言う理由で進学を諦めるよりも、『兄弟が多くて、早く親の支えになりたい』だとか、『シングルマザー、シングルファーザーとして親が頑張ってくれているから、私も早く独立したい』みたいな発想なので、“何かを諦めて就活”と言うよりは、自分のことを考えて働こうと考えている子が多いかなぁ、と思っています。それをギラギラとたぎるようには出さないけれど、なんかやる気が無さそうに見えていても、そういうことをキチンと心の中にしまっているように思える子が多いですね」

なるほど。「高卒就活はドロップアウト」と言うイメージは偏見に過ぎないようです。吉田さんは、こうも言います。

「高校生から、結構大きな会社に入っていく子たちって、すごく意識高いですね。優秀ですね。私も、うちの会社に入ってきてほしいと思う子たちも多いですよ」

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実際に、そうした優秀な高卒新入社員を職場内で教育をし、さらに活躍して欲しいと言う研修制度を設ける企業もあるそうです。

「例えば、ある地方銀行では、高卒社員を働いてもらいながら夜間の大学に行かせ、大学の学位などを取れるような雇用の仕方をしていたり、またある中小企業でも、高卒で入ってきた子たちに向けて、SEとか製造技術系とか品質管理とか、専門のコースをいくつか用意し、そのコースごとに専門学校や大学から講師を呼んできて、会社の中でも勉強が出来るキャリアアップのコースを設定するなどの教育研修制度を用意している会社もありますよ」

さらに、吉田さんは、こう続けました。

「企業の採用担当者の方々に申し上げたいのが、“早活人材”と言う存在を知って欲しいですね。早くビジネスや地域社会の活動において成長したい貢献したいと思っているような十代の若者が世の中にはいるんです。彼ら彼女らの柔軟な発想とか行動力を組織に招き入れることで、組織というのは大きく成長していけると思います。雇用とは別であっても、インターンシップなどで組織に招き入れるような形でも良いので、門戸を開けていって欲しいなと思っていますね」

しかし、その一方で、高卒就職者が3年以内に4割が退職していると言った離職率の高さが指摘されています。これには、どんな理由があるのでしょうか?吉田さんは、こう分析します。

「そういう高校生たちは、3年生になってから急に短期間で就職活動をさせられるからなんです。これが良くない。高校3年生になって、7月に求人情報が出てから慌ただしく動く。そして、おおよそ2ヶ月ぐらいの短期間で就職先を決める。そうした状況で就職しても、会社に入ってから、『先生に言われるがまま慌てて決めちゃったけれど、本当にこれでいいんだっけ?』と、簡単に離職に繋がるのではないでしょうか」

さらに、問題なのは、そうした若者たちが、離職してから再就職に向けての行動をなかなか取らない点です。これに関しては、高校での進路指導、就職指導に問題がある場合があると吉田さんは指摘します。

「高校での就職指導では、先生が手取り足取り引っ張ってくれるケースが多いんですね。生徒側からすれば、言われた日時に、言われたところに行って、先生が指示した『そこで、これをやりなさい』ってことをやれば、合格にたどりつけるんですね。生徒側が自分で内定を得るために、いつまでに何を出さなきゃいけなくて、だから今、これをやらねば、って発想がない。言われたから、ここに来て、これをやっている・・・みたいなところはありますね。ですから、離職した後に再就職できずにフリーターになっている子が多い。自分でもう1回就活する力を、高校3年生の就活の時に身に付けられていないからです。先生方が就職指導をどう認識しているかだと思うんですけど、就職活動を通じて、社会人になる準備をしていって欲しいと指導をしている先生と、とりあえず合格させるために指導している先生がいる。そうした後者のケースだと、卒業した後、生徒たちが、自分で就活を頑張ろうっていうことになった際に、結局何をやっていいか分らない、となるんだと思います」

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(写真は学生時代の吉田さん)
では、就職を視野に入れている18歳の若者にアドバイスをしていただくとしたら・・・

「“とりあえず”で進路を決めないで欲しい、と言うことですね。自分の人生の舵は自分で持つ、自分で舵取りして欲しいと思います。世間がとか、親がとか、先生がじゃなくて、自分の人生なので、自分の意志で進路を決めて欲しいです。そのために、やっぱり様々な経験をしたり、様々な情報を得たりということが必要なので、働くにしても、進学するにしてもどんな会社が世の中にあって、どういう稼ぎ方、どんな生き方があるのかぜひ知ってもらいたいと思います。特に親以外の生き方を知ると言うことは、どんな高校生でも必要で重要なことで、親以外の信頼できる大人、こういう人になりたい人に出会うきっかけを作って欲しいと思いますね。そのためには、自分の居場所を学校の中だけにしないっていうのも大事。学校って素晴らしい空間ですけど、狭い空間でもあるので、自分の可能性を伸ばすためにも、学校の外にも居場所を作る。そうすると、学校での嫌なことも小さく見えてきますよね。人って、学校の中での評価が全てではないのでね」

では、企業側に向けては?

「ダイバーシティが言われている中で、大卒以上とか、高卒以上とか、学歴で区分をすると言うことは時代と逆行していると思うんですね。是非、これからの時代のSDGsの中でダイバーシティを加速させようと思われる企業は、学歴不問で、是非門戸を、高校生たちにも、広く開けていって欲しいなあと思いますね」

やはり、ここでも大人たちの役割が重要なようです。さて、まずは早速、自分は、若い世代から見て「こう言う人になりたい」と思われているのか、怖いけれど、自らを省みるところが始めてみましょう!(了)

※ アッテミー https://atteme.com/

「大学3年生を対象にした授業で、自分の親の仕事を知っている人は?と尋ねたら、半数から6割程度は手を挙げるんだけど、じゃぁ具体的に何をしているか知っていますか?と聞くと、皆、知らないんですよ。そこで、仕事について親とおしゃべりしていますか?って、重ねて聞いたら、ポツポツしか手が挙がらなかった。親が、子どもたちにとっては、一番近いロールモデルなのにね」

そう話すのは、NPO法人チュラキューブ代表で、株式会社GIVE&GIFTの代表取締役、大阪では知る人ぞ知る社会起業家の中川悠さん。その事業の傍ら、大学の教壇にも立たれるなど忙しい毎日を過ごされている中川さんですが、自らの仕事を、こう説明されます。

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「メイン事業は地域活性化のコンサルティング。プロデューサーであり企画屋さんでしょうか。その対象は、なかなか注目されない地方都市であったり、障害者の皆さんと言う感じ。こんな企画の事業をやりましょう、僕らもやりますからと言うように、プロデューサーでありながら実行者でもある、と言うのが僕の仕事への取り組み方です」

そんな中川さんの働き方のロールモデルは、確かに、中川さんの身近にいたのです。

「僕の母方の祖父は、大阪の豊中市で精神病院を創立しました。母親も一時はそこで働いていたので、僕も病院にはよく行っていました。精神病院って、こういう世界なのか、と子どもながらに感じていたし、患者の方々が福祉施設で作っていたパンもよく食べていたな。また、父は、父で、義足義手の研究員だったので、自宅にも、よく手や足を失った人が遊びに来ていましたね」

なるほど。確かに、今の仕事に繋がっている。しかし、中川さんが、今の事業を始めたのは13年前の29歳の時。では、高校を卒業してそれ以降、どんな道を歩んで来られたかと言うと、なかなかの“凸凹道”だったと言えそうです。

「姉もそうですし、医学部に行った親族は多いんですが、ボクは、一年浪人後、近畿大学の経営学部に入学しました。取り立てて経営を学びたかった訳じゃないけれど、将来どんな仕事に就いたらいいのかも分らないので、4年間は“様子見”と言う感じでこの学部を選んだかな。しかし、授業はそっちのけで、演劇にはまって、一年生の間は大学の演劇部に在籍していましたが、2年生からは社会人劇団に入ります。大学には試験の前だけ行くというような学生でしたね。しかし、この劇団の活動をすることで、チラシの撒き方から、予算の立て方などプロデューサーとしての基盤が出来たのかも知れませんね」

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(写真:2007年)
そして、卒業が迫ってくると、このまま演劇の道を進むのか、それとも普通の社会人へと言う道を進むのか、多くの演劇青年がそうであるように、当時の中川さんも当然迷ったのですが・・・

「演劇の道を選んだ先輩を見ていると、だいたい30歳ぐらいで辞めていく。僕は、その当時、スカウトをされ、タレント事務所のようなところに在籍していたものの、回ってくる仕事はカラオケ大会の司会や、テレビドラマ『部長刑事』の名も無きヤンキーの役。まずは演劇の世界で自分に商品価値がないことを身にしみてわかったので、普通に就職する道を選んだんです」

しかし、中川さんが就職した先は、当時“ブラック”と言われた英会話教室。お客が望まないものを『四の五の言わず売ってこい!』と言う体質に反発して、結局、そこは3ヶ月半で退職します。実は、中川さんが正社員だったのは、この3ヶ月半だけ。その後は、地図を作る会社でアルバイトをしたり、雑誌の編集の仕事をしたり、新聞社でライティングをしたり、さらにテレビショッピングのディレクターをしたりと、中川さん曰く「なんでもした」とのこと。けれど、それら全てが今の中川さんの礎を築いたのです。さらに、驚くことに、あれほど大学では勉強していなかったにもかかわらず、起業とともに、大阪市立大学の大学院に入学し、「創造都市」に関して学ばれるのです。こうやってお話しを伺うと、人生って、真っ直ぐな一本道なんてことは決してなく、あっちに寄り道、こっちに寄り道、そして、時に行き止まり、なんてことを繰り返しているんだろうなと思います。
そんな中川さんに、現在の18歳の若者へのアドバイスをお願いすると・・・

「大人といっぱい喋って下さい。社会に出た瞬間、相手するのは同じ年代などに限られるわけなどなく、上は60歳から65歳ぐらいまで。まちづくりの世界であれば、70歳代にまで跳ね上がるのですから」

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(写真:2007年)
確かにその通り。しかし、そうした方々と相手する準備が出来ているかと言うと、実に心許ないのでないかと、中川さんは、今の若者をこう分析されるのです。

「みんな、スマホに焦らされている感じがしますよね。スマホ見て、YouTube見て。とりあえず、今の流行は押さえておかなあかん、と言う感じで。だから、知ってることは、結局、みんなと共通している。ジックリ、本を読んでいます、と言う子も少ない。さらに、彼らは世界に触れることがなくなってきている。生身の大人に触れることがなくなってきている。スマホとかで見て得る情報量は多いけど、生身の人に接していない、触れる機会がない、触れ方も知らないし、その必要性を感じていない。せっかく目の前に現れる、たくさんのチャンスを逃しているのがもったいない気がしますよね」

そして、話は「若者の仕事観」へと自然に向かったんですが、今の若者は、仕事に関して、実に知識が乏しいと、中川さんは指摘します。

「学生たちに、なんで20年も生きていて、仕事に関して知らんと思う?と聞くと、学生たちは、責められている感じを持つんですよ。『私たちが、知らないのが悪いのかな』って。いやいや、それは社会の責任!先生も教えてこなかったし、僕ら大人も教えてこなかったから。君らの責任ではないよ、と言うとホッとするんですよね。社会が、そう言うことを教えてこなかったことに元凶があると思いますね」

そこで、冒頭の親の話に繋がったと言うわけです。折角のロールモデルが身近に存在するのに、親子の間に仕事に関しての話題のキャッチボールがない。それは、実にもったいないことだと。そこで、中川さんは、最後に、こうまとめられました。

「親よ、子どもに仕事のことを話すことを恥ずかしがるな!それがキャリア教育だ!!」

今回も、大人側への痛烈なパンチ!このコラム、「18歳の羅針盤」と謳っている通り、進路を示す“星”や“星座”を読むのは、当然若者たちではあります。しかし、その“星”や“星座”は、大人たちの背中でも、かつては燦然と輝いていたはずだったものが、ムムムムム、その輝きは随分と弱まってきているのかも知れません。(了)

※ チュラキューブ
https://chura-cube.com/
ギブアンドギフト
https://give-and-gift.jp/

「金が無くて、友達の家に居候したり、どん詰まりの時は、もうネットカフェ難民状態でしたね。週の半分は、ネットカフェで過ごしていました。ネットカフェに“ナイトパック”と言うのがあるのをご存知ですか?夜の11時から朝の5時までが、当時は1000円ぐらいで泊まれました。シャワーもついているし。でも、夜の11時まで入れないし、朝5時になったら追い出される。 一番キツイ時ですか?財布の中身が300円と言う時もありましたね。」

そう語るのは、勤労者福祉の増進をテーマに掲げ、就労支援や人材開発事業を手掛ける大阪労働協会のグループ長・宍野雅幸さんです。1982年生まれの現在38歳。今のお仕事からは、全く想像がつかない、なかなかインパクトのあるインタビュー内容ですが、宍野さんが26歳の時の、実際の体験談です。

シンポジウム壇上

そう、この写真が、宍野さん。シンポジウムのパネリストの一人として登壇されているところです。そんな宍野さんが26歳の時には、財布の中身が300円だった・・・と言う。では、ここまで、宍野さんは、どんな道を歩んで来られたのでしょうか?

「高校は進学校。僕ももちろん大学に、農学部に行くつもりだったんですが、我が家はお金が無かったので、親からは『大学に行きたかったら行ってもいいけど、お金も何も、自分でやってね』と言われて。当然、国公立を目指すんですが、塾にも行けず、まぁ、実際、そんなに勉強しなかったし、結果、受験は失敗。一度浪人して、翌年再チャレンジと言うことも考えたんですが、大学に行くにしても、奨学金を貰わないと通えない。しかし、奨学金を貰うと、その後、返していかないといけないじゃないですか。僕は、そもそもサラリーマンに成るつもりは無く、農業をしたいと思っていたので、奨学金を貰ったとしても、なかなか返せないと思って、大学は諦めて、結局、高校を卒業してから半年経った頃から、社会に出ることを決めたんです」

キャンプ写真(高校3年)

上の写真は高校3年生当時の宍野君。確かに面影はある。「奨学金の返却」に関しては、今も、いや、“さらに”大きな問題なのかもしれませんが、  結局、当時のクラスメートは、宍野さん以外全員、大学進学。
そこで、宍野さんは、こう決意されたそうです。

「大学に行かないと決めた以上、大学に行っている奴等と差をつけないと、行かないと決めた意味が無くなる。そこで色々な経験をしようと思って、 18歳から22歳までは色々やりましたね。アルバイトはもちろん、起業めいたこともしたし、色々なセミナーにも行きましたね。経営者と喋るのが、手っ取り早いかなぁと思って、経営者に会いに行くなんてこともよくしていました」

様々な体験を積み重ねながらも、根底には農業をやりたいと言う思いがありました。農業をやるにしても、やはり営業力が要ると、そのスキルを身に付けるために22歳の時に、すなわち大学に進んでいたら、まさに卒業するそのタイミングで、求人系の広告代理店に就職したそうです。その面接で、宍野さんは、こう自己アピールしたそうです。

「大学には行っていませんが、その4年間は、大学進学組の人たちとは違う 4年間にしようと思って過ごしてきたので、他の人たちと、僕は違います。採って良かったと思ってもらえる自信はあります」

と、なかなかの“ビッグマウス”ぶり。しかし、実際に、就職して2年目には、営業トップの成績に輝きます。丁度そのタイミングで、やってみたかった夢、農業が出来る土地が見つかった。そこで、今度は脱サラをして、農業に挑戦するのですが・・・やられました!!たわわに実った稲の収穫が間近に迫った時に、全てイノシシに先を越されたのです。もちろん、収穫ゼロ、売上ゼロ、そして宍野さんの貯金は、そこで、全て尽きたのです。
そして、冒頭のインタビューに繋がると言うわけです。

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って、これが26歳の時の宍野さん!学生時代から続けてこられたと言う教育キャンプでの一コマです。携帯電話の料金も支払いも滞り、携帯電話が止められると言う事態が何ヶ月も続いていたと言う中で、なぜ、こんなに元気に、ご陽気にいられたんですか?

「絶対、腐らないぞ!と思ってましたね。自分が好き放題やった結果なので、自分が悪い。やりたいようにやって、そうなったのなら、自分の責任で、仕方がない。愚痴を言っても事態は好転しない。いかに先を見据えて やるか!今、とにかく将来に向けて良い原因を作るしか道はないんだと。 そこで、絶対に腐らんぞ!と思っていましたね」

何とも強い!その後、転職サイトで、今の職場を見つけて就職し、現在に至ると言うのが宍野さんの経歴。なかなかの波瀾万丈ぶりです。しかし、スタートは「大学に行く資金が無い」と言うところから。これは、今のコロナ禍で、増えることはあっても、減ることのない問題。実際に、この資金の問題で大学進学を躊躇している若者も多いのではないでしょうか?
そんな彼ら、彼女たちにアドバイスをしていただくとしたら・・・

「結局、自分で責任をとらないと仕方ない。どんな結果になっても。だから、人の意見で決めるな、と言いたい。親の意見だったとしても、それに従ったら、言い訳に出来ちゃう。すなわち、それは逃げ道!自分で、とにかく考えて、自分で、決めるしかない。大学に行きたかったら奨学金と言う制度もある。それは返していかねばならないけれど、その覚悟がちゃんとあるなら、大学は行こうとすれば行けるんだから」

では、18歳のあらゆる人たちにアドバイスをしていただくとしたら・・・

「まずはやってみる。こうかなと思ったことは、まずやってみる!でないと善し悪しは、分らない。トライ&エラーでいいと思います」

但し、こうも付け加えられました。

「なんでもかんでも、自分で調べて、自分で考えろ!と言うのは、18歳の若者には、流石にハードルが高い。18歳の時点では、様々な方向性があって、その一つ一つの方向性に関して、メリット、ディメリットを示してあげる大人の存在が、やはり不可欠かと思います。そうした中で、最後は、若者たちが自分で選ぶ!そうした環境作りが、大人たちの方で、必要ではないでしょうか!?」

私たちも、18歳の若者たちの将来に向けて、その方向性を指し示せる、そんな大人になりたいものです。(了)

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「高校の進路指導の先生には『いいの?』って言われましたよ。『出席日数さえちゃんと足りていれば、推薦貰えるよ!』とも言われました。京都の“そこそこ”の大学だったかと。でも、私は、専門学校に行きますと答えました。先生ですか?嫌がる感じはありましたよね。」

そう語るのは、メイクアップアーティストとして雑誌やテレビ、映画などの業界で活躍されている岡田華蓮さん。2020年からはオンラインブランディングプロデューサーとしての活動も開始され、2021年の5月には会社まで立ち上げたと言う、今、注目の若手起業家です。
(※ OoO株式会社 https://ooo-o.jp/sp/whoweare.html )
この岡田さん、高校は京都府内の進学校。その2年生の頃から、早くもメイクアップアーティストの道を目指します。

「当時から、私、美意識が高くて、周りの友人からは『髪の毛をセットして欲しい』と言うお願いがよく寄せられたんですよね。やっぱり高校生の女の子達って、そういうの興味があるじゃないですか。実は私、小さい頃から考古学も好きだったんですけど、考古学は趣味でもやっていける。やはり、手に職を付けておいた方がいいかなと言うことと、人に喜んでもらえる、感動して貰えるってことで、今のメイクアップアーティストの道に進もうと思ったんです」

しかし、高校は進学校。多くの友人は、当然のように大学を目指します。

「一学年に280人から300人いた学校で、『専門学校に行きます!』『就職します!』と言う生徒は、私も含め、10人にも満たなかったと思います」

では、そうした大多数の声に流されるようなことはなかったのですか?
特に若い世代は周囲の声や、周囲の視線を気にすることも多いと思うのですが・・・。

「自分が行きたいところに行く!やりたいことをやる!頭の中はそれだけでしたね。まだ友人たちの間で、進学の話が出ていない中で、私は、専門学校のパンフレットを、めちゃくちゃ集めてました。そのパンフレットを眺めながら、自分が、今後、どういうふうになっていくのか、想像しなから楽しんでいましたね」

そして、実際、その当時思い描いていた道をしっかりと歩み続けられ、今に至るのです。

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「今まで歩んで来た道に後悔はないし、それが、自信に繋がっていると思います。と言うか、あそこでこうしとけばよかったとかも、全然、ないですし。でも・・・」

でも?でも、なんですか?

「大学は行っていてもよかったかな、とは思う。年を重ねるにつれて思いますね。勉強したいと言う欲が、出て来ますよね。例えば、経営とか。ただ、大学には、これからも行けるんですよ。なので、高校卒業時点に、専門学校に入っておかないと、今の私はないので、あの時点で、大学に行っておけば良かったと言うのはありません。ただ、今後必要になれば、大学に行けばいいんじゃないかと思いますね」

では、今の18歳の若者たちにアドバイスをされるとしたら?

「今やりたいことをやるべきだと思ってます。今、興味があることをやる。例えば、学びたいことがあるのなら、学ぶ。学びたくないときに学ぼうとしても何にも頭に入ってこない。やっぱり、自分に意欲があるときにやる!意欲がないときは、無理してやる必要はない!自分の好きなことをやるのがいいと思うんですよ。それで、全然いいと思うんですけどね。」

しかし、多くの若者は、その“やりたいこと”が見つからないので、悩んでいるのではないでしょうか?そもそも、その“やりたいこと”を見つける方策などがあれば、それを教えていただきたいのですが・・・

「一日のスケジュールとか、一週間のスケジュールを書いてみる。それは、“これからやること”のリストじゃなくて、“それまでにやったこと”のリストを書いてみるんです。そう、将来のことじゃなく過去のこと。やることだと“目標”になるけれど、やったことだと“結果”になりますよね。自分が無意識にやったことも含め、ね。それを一週間分書くと、その間に、自分が、何を一番多くやっていたか、何に一番時間を割いていたかが、自然と分かるんですよね。例えば化粧だとか、ゲームだとか、料理だとか。それを何人かの友達と照らし合わせる。すると、違いが分かる。その違っているものが、自分は、結構好きだったんだと、そう思えるものに気付く確率が多いと思いますね」

なるほど。これは面白い方法かと。ところで、こうした岡田さんの“ぶれない”性格って、どんな風に形成されたのですか?例えば、ご両親は、岡田さんをどう育ててこられたのでしょうか?

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「両親は『自分のことは自分で』と言う育て方でした。学生時代も『成績表を見せなさい』とも言われたこともないですよね。『とりあえず最低限、高校は卒業さえすればいい。あとは自分の人生だから好きにしなさい』って。ずっと『自分の人生だから、自分で責任を持て』と言われてきたと思います」

最後に岡田さんは、こう締めくくられました。

「私が思うこれからの理想の社会って、心が落ち着く仕事をして、そして、お金をもらえる。自分の好きなことをして、稼ぐことが出来る。そんな社会になればと思っています」

さて、私たちは、そんな社会の実現に向けて、何から始めれば良いのでしょうか?(了)

LEDの新田さんn

「大学に行っていたら、面白くない人生だったと思うんですが、
大学に行かなかったおかげで、色々な世の中を見ましたよ。」

そう語るのは、「地域・企業と連携し、子育てする女性の自己実現の機会を共創する」をミッションとして掲げる株式会社マミー・クリスタル代表取締役社長の新田昌恵さんです。
※ https://mommy-c.co.jp/
この新田さん、高校は大阪府内の進学校。高校卒業後は「大学に進学!」と言うのが、本人も、周囲の友人たちにとっても“当然の進路”。新田さんも、希望の外大に無事合格を果たします。しかし、お母さんからは、こんな驚きの発言が・・・

「えっ!?大学に行くの?お金の準備していないよ」

新田さんのご両親は、その世代の多くがそうだったように高校卒業後はいち早く社会に出ていたことから、娘の大学進学は想定外だったそうです。そこで、新田さんは、慌てて奨学金の申請をしますが、それだけでは足りない。そこで、アルバイトで、授業料を稼ぎながら大学に通うことになるのです。

「授業が終われば、コンビニで働いて、夜は近所のスナックでカウンターレディー。テスト勉強は通学途中の電車の中。もうフラフラでしたね」

しかし、何故それほどまで頑張れたのでしょうか?

「大学って、行くものだと思っていたし、勉強もするものだと。テストでは、良い点を取るものだと思っていたから。負けず嫌いなんですよね、勉強においても何においても」

しかし、その生活は一年で終わります。さて、その訳は?

「一年やってみて、これがなんの役にたつんだろうかと思い始めたんですよね。授業も、だんだん面白くなくなってきて。さらに、この生活が今後さらに三年も続くのかと思っちゃったんです。家から大学へ行って帰って、勉強して、働いて、そして、いつも眠くて・・・。こんな生活、あと三年出来るとのかな、と思って。ほとんどの時間を稼ぐことに費やし、そのお金を使う先が大学で、その大学がたいして面白い授業をしてくれない。これ、ちょっともたいない!と思って、大学は一年で、辞めたんです」

しかし、だからと言って、その後の進路を明確に描いていた訳ではありません。

「何も考えずに大学を辞めました。まぁ、バイトを増やそうか、と言うぐらいでしたね」

実際、派遣やテレアポなど様々な仕事を掛け持ちしていたそうです。例えば、電気屋さんでは販売説明員をやり、当時、“関西で一番電子辞書を売った女”だっとか。また、大阪の歓楽街・北新地では、歌の上手さを活かしてシンガー兼ホステスとして働いたこともあります。歌に関しては、CDデビューもしていて、東京の事務所からスカウトされ、この歌で、生きていこうと決意するんですが・・・

歌手を夢見ていた新田さん_n

                 (歌手を目指していた頃の新田さん)
その時、妊娠が分かり、悩んだものの、歌手の道は諦め、その時点で、一旦は専業主婦になるのです。(起業されるのは、そこから随分先のこと)それが、22歳の時。あのまま大学に通っていたのならば、ちょうど卒業する年齢だったのです。そこで、その4年間を振り返って新田さんが言った言葉が、冒頭の「大学に行っていたら、面白くない人生だったと思うんですが、大学に行かなかったおかげで、色々な世の中を見ましたよ。」と言う言葉に繋がったと言う訳です。新田さんは、さらに、この四年間をこう称します。

「濃い四年!その後の人格形成の四年でしたね」

その理由を、こう説明します。

「早い段階で大人の世界を見ることが出来ました。色々な大人がいるんだなぁ、と。そして、大人との付き合いが増えて、自分も大人になったような気になりましたね。それまでは、同じ歳の人としか付き合ってこなかったのに、この時期から、大人の人と対等に話ができるようになったのは、大きい経験かと思います。何より、あの経験があったからこそ、今、仕事がなくなっても、何とかして生きていけるなと思いますね(笑)」

新田さん マミークリスタルの役員たちと_n

            (写真:マミー・クリスタルの経営陣と・・・)そんな新田さんに、現在18歳の若者にアドバイスをして下さいとお願いしました。

「とにかく一番興味あること、やりたいことに素直に向かうべきだと思いますね。勉強がしたい、それが大学でしか勉強できないことなら、大学に行くべきだし、私が学びたいことは、大学じゃなく専門学校だとなれば、専門学校に行けばいいし、それよりも、働くことに興味があるのであれば、いきなり働いてみるのもいいと思う。自分の好きな世界、興味がある世界に、ちょっと足を踏み入れてみると言うのが大事なんじゃないかな。でも・・・」

でも・・・何ですか?

「親が、『大学ぐらい行っといたら!』って言うからね。子どもは、やっぱり、親の言うことを、まず聞いちゃう。親を何とかしないと・・・。親を変えないと、いけないのかもね」

18歳の羅針盤。それを握る航海士は、親なのか。今一度、大人たちが考えるべき問題なのかもしれません。(了)

mothernet-上田講師用

(仕事と子育ての両立支援をサポートする株式会社マザーネット創業者
・上田理恵子)
https://www.mothernet.co.jp/

「18歳。自分がどんなことがやりたいのかわからず、なぜか“染色”に強く惹かれるものがあり、大学の被服科に進み、その勉強をしました。当時は 22歳で就職しても、女性は24歳までに結婚することが多く、就職が厳しい時代でしたが、大学の研究室の紹介で、空調メーカーにエンジニアとして入社することが出来ました。入社後は、今までやったことのない電子回路の勉強をし、機械の設計図を書くこともありました。お客様との打ち合わせに参加すると、『女性が書いた図面は困る!』と怒られたこともありましたが、結構、図面に線を引くことが楽しいと感じる自分がいました。与えられた仕事に向き合いながら、自分は何がやりたいのだろう。どんな仕事に向いているのだろう、と考え続けてきたように思います。とにかく、その時に「やりたい!」と思ったことにチャレンジしてみることにしました。20代後半には専門知識を深めようとインテリアコーデイネーターや2級建築士の資格を取得したこともありました。けれどチャレンジする度に、「これじゃない・・・」と思うことばかり。
そんな中、30歳で長男、32歳で次男を出産。子育てしながら仕事を続けてきました。希望の保育所に入れない。子どもの急な発熱の時、預けるところがない。自分自身のつらかった経験を通して。「働くママにやさしい社会を創りたい」という使命が沸き上がってきました。39歳で創業、今年で 20年が経ちます。今もその夢を持ちながら、挑戦を続けています。
どんな悲しい経験やつらい経験も決してムダにならない。そして、挑戦しなければ、失敗することはない。けれど失敗からこそ、学ぶことがたくさんある。そのことをこれから未来の世界を歩んでいくみんなに伝えたいと思います。」

◇「18歳の時、いろんな選択肢が持てるようにと大学進学を勧められ、進学し、それはそれで出会いも学びもありましたが、18歳に戻れるとしたら、さっさと海外へ学びに行くように勧めますね。と言うのも、世界にはたくさんの価値観があり、日本の当たり前が覆されるからです。そして、選べる選択肢も桁違いになっていたと思うからです。」(大学を卒業後OLに。現在は退社してワーキングホリデーでカナダ渡航を計画中)

◇「18歳、正しい選択なんて分からないですよね〜。将来お仕事を持つ女性のイメージで、薬学部を受験しましたが、一年目は不合格。その年、滑り止めで入った女子大の英文科では、未来はお嫁さんって思っていましたが、そこでは、結局、仮面浪人。二年目に念願の志望校に合格して、卒業後は薬剤師に。その後、働いてはお金を貯めて、一旦その会社は辞め、長期海外旅行に。そして、また他の会社に転職と言うキャリアサイクルに。しかし、30歳前後で、起業を夢見、実際に40歳を越え起業。そして、今に至りますが、何が正しいかは今でも分かりません。ただ後悔しないように、やりたいことはやってみる❗️に尽きますね✌️」(女性起業家)

◇「もし18歳に戻れるとしたら・・・ですか?う~~ん難しいですねぇ~~!( ;∀;)だって失敗続きの人生で、でもその失敗から学びましたから、敢えていうなら、“あんたはあんたのままでええんやで”かなぁ。(笑)」
(大学卒業後、某新聞社に入社、その後転職して大手ハウスメーカーへ。2012年独立)

◇「島根県出身なので、18歳の時は、とにかく田舎から都会に行きたい、とだけ思ってました。都会に行くとイイことありそう!という単純な思いです その結果は? 満足してますが、それ以外の選択肢を、思いつかなかったのば、いま思えば残念です。」(大卒。現・コンサルタント)

◇「18歳ですか? 何してたかな~~って、思い出すのは、ナンパばっかりやってたかもです。仲間も肉食男子で、女の子を追っかけてましたね~~。今18歳に戻ったら、何をしたいかな?? モテル男に、自分磨きをしたいかなって思います。でも金がないか、、、よく考えたら、18の時より、54歳の今の方が楽しいかもです」(大卒。工務店経営)

◇「18歳の若者に伝えたいこと。『今を、全力で楽しめ!!』って感じです。大学に行こうと、就職しようと、これは若者に大事なことかなと思います😊。大人が若い世代に、楽しめ!!楽しめ!!っていっぱい伝えてあげれる社会が良いな〜と思います」(大学を卒業後大手損害保険会社就職。その後起業)

◇「“自分を信じろ”ですかね。自分の18歳は、周りの環境や期待に応えないといけない、なかなかやりたいことが見つからないとか、今思えば大して動いてもないのに人や環境のせいにしてたなあと思いますが、消去法の選択ばかりしてた気がします💦今は、自分が思えばいろんな情報を気軽に得られるし、人や場所と繋がるのもかなり容易になったと思います。今は、なにもやりたいこととかなくても、とりあえずなんか面白そうって思う人や場所にどんどん出逢いにいってほしいです😊あとは“常識を疑え”ですかね。軸はあくまで社会じゃなくて自分でいいと思います。」(大学・法学部卒業後、医療専門学校に再入学。現在は、放課後等デイサービス事業の経営者)

◇「私は大学はひとつだけ受験しました。滑り止めって考え方を、父が許してくれなかったから。それで落ちたら、大学に行く必要もない、運命を受け入れるほうがいいって。あのときは父を恨んだけれど、今になったら、父の考えがよくわかります。縁があるところが、自分にいいところって、思えるようになったからです。社会の決める基準とか関係ないなって。」(大学卒業後、テレビ局勤務。現在はフリーアナウンサー)

「偶然の出会いを大事にしてほしいかなと思います。今、50歳の自分を振り返っても、大学で大阪に来たこと、新聞記者になったこと、文化部記者になったこと、退職して臨床心理士になったこと、演芸カメラマンになったことなどなど。ある程度の意図を持ちながらも、それより大きな偶然に出会い引っ張ってきてもらった感覚があります。」(大卒。元・新聞記者、現・臨床心理士)

(ご意見の集め方)
noteだけでなく、FacebookやTwitterでも、情報を発信していきます。
そこで、「協力しても良いですよ」と言う方は、ご自身の18歳以降の簡単な学歴や職歴を教えていただき、今、18歳の時点に戻れるのであれば、どんな「選択肢」をチョイスされるのか教えて下さい。
あるいは、もっと簡単に、今の18歳の若者に、どんなアドバイスをされるのか、一言でも結構です。また、改めて、じっくりお話しを伺いたいと思った方には、個別にインタビューをお願いさせていただく場合もありますので、その際は、何卒、よろしくお願いしたします。
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