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夢のMLB挑戦を3度断念して"アジアの大砲"を全うした李承燁


  静まり返った今年のGW

 何もすることがない私は、東野圭吾ミステリー小説を読んだり、読売ジャイアンツ公式Instagramでライブ配信される動画や、YouTubeで「ホームラン集」と検索して出てくる動画を酒と共に体内に流し込む日々...

 その日常は、幼少期の私の心に強く印象に残っている選手の一人の懐かしきホームランも映した。

 個人的に今まで見てきたホームランの中で、
「入るか!?」

「どうだ!?」
というスリルを与えてくれる事の少ない、
"瞬きしたらもうスタンドイン"
という表現も決して大袈裟ではない選手。

 俗に言う"アジアの大砲" 李承燁だ。


1.国民的打者

 李承燁は、韓国プロ野球界ではもはや圧倒的だった。

 初の本塁打王を獲得した1997年から7年連続30本塁打を記録。中でも1999年には韓国記録となるシーズン54本塁打をマークしたことで一気に国民的打者へと成長。数々の国際大会で韓国代表の中軸を担ってきた。

 その後も2000年にはシドニー五輪で日本との3位決定戦で松坂大輔から決勝タイムリーを放ち、韓国初のメダル獲得に貢献。2001年、2002年も2年連続で本塁打王を獲得すると、李にとって最高のシーズンが訪れる。


2.アジアの大砲

 2003年6月22日、あの憧れの王貞治(27歳3ヶ月)、A.ロドリゲス(27歳8ヶ月)を抜き、26歳10ヶ月という世界最速での通算300号本塁打を達成。
ちなみにこの試合の9回裏、二死満塁でサヨナラ満塁ホームランを放ち自身の記録に花を添えているあたりもスターである。

 また、この年は開幕からハイペースで本塁打を量産しており、当時133試合制だった中、127試合目に自身の韓国記録を更新し、あの王貞治、T.ローズ、A.カブレラと並びアジア記録タイとなる55号本塁打を記録。
 国内では、残り6試合で新記録達成となるか国民的打者に注目が集まったが、そのプレッシャーからか、なかなか本塁打は出ず。自身も「56号は難しいかもしれない」と弱気になっていたが最終戦にて見事56号本塁打を達成した。

 この記録に韓国国内は大変な騒ぎとなり、韓国の国民的打者は"アジアの大砲"へと評価を上げた。

 ※アジア新記録とは言っても、球場の広さはもちろん、当時の日韓の投手レベルや試合環境等異なる部分は多いため、一概に同じフィールドに並べるのはいかがなものかという意見も多かったようだ。


3.夢への挑戦と断念

 03年オフ、以前からの夢であったMLB移籍を目指し、FA権を行使。国内でもMLBに移籍する事は前提となっており、李本人も「DHのあるア・リーグに行きたい」と語り、「松井秀喜の成績を2年以内にありとあらゆる面で越えてみせる」と豪語するほど自信を覗かせていた。

 しかし、MLBの球団関係者との交渉の席で出された提案は李の希望とはかけ離れたものだった。
まず年俸が100万ドル(12億ウォン)(日本円で1億円程度)とされ、李の予想よりも低く、主力の保証はおろか、マイナーリーグを経由する案まで出されたという。挙句の果てにはスポーツ専門サイトのCBSスポーツラインに「ドジャースは李承燁はベンチ要員と考えており、マイナー契約を望んでいる」と報道された。
 これほどまで評価が低かったのは、当時のMLBでは韓国人野手の活躍の前例がなく、一般的に韓国球界のレベルが2A程度だという評価だった事が大きいようだ。

 事実、同年同じくMLB行きを目指していた日本人野手 松井稼頭央への関心は高く、ヤンキースを始めのべ9チームが獲得に乗り出し、年俸も600万ドル以上規模での争奪戦と言われた。
 この厚遇は、イチロー、松井秀喜らの活躍が影響していると言われている。

 こうして、結局このオフのMLB移籍は断念。再びMLB移籍を目指す為の環境を日本に決めた。


4.アジアの大砲の来日と苦難

 「2年間在籍すれば無条件でメジャーリーグ行きをバックアップするという条件に心が惹かれた」

 千葉ロッテマリーンズへの入団会見で李はそう語った。

 しかし開幕してみると、縦の変化球への弱さを露呈し、なかなか日本野球に適応できず、わずか1ヶ月で自身初の二軍落ちを経験。数ヶ月前のMLB球団との交渉の席で出た「マイナーリーグを経由する」という案よりも屈辱的だっただろう。
 結局この年は規定打席未達で.240 14本塁打 50打点と不本意な成績に終わり、翌年の開幕も二軍スタートとなる。

 母国からの期待の大きさは国民的打者と呼ばれた男の運命ともいえ、我々一般人には想像もつかないプレッシャーであるはずだ。しかしそのプレッシャーをしっかり背負い続け李はバッターボックスに入り続けた。

 二軍のコーチの指導や指摘も紳士に受け止め、自分のものにしていった。

 その結果、2005年は固定レギュラーの座には座れなかったが、前年の倍以上となる30本塁打を記録しプレーオフ進出に貢献。日本シリーズでも3本塁打を放つなど随所で良い働きを見せ、日本一に輝いた。

 約束通りオフには2度目のMLB移籍を模索したが契約はできず。ロッテのバレンタイン監督の起用法に不満を持っていた李はロッテ残留はせず、獲得意思を示していた読売ジャイアンツと1年契約を結んだ。


5.読売巨人軍 李承燁 誕生

 2006年は第一回WBCが開催された。結果は言わずもがなだが、日本代表の最大の宿敵 韓国の4番は当然李承燁だ。
 千葉ロッテ時代に身に付けた日本野球への対応力を生かし、日本戦で本塁打を放つなど奇しくもライバルを対日本用にパワーアップさせてしまった形だ。
ちなみに当大会では大会最多の5本塁打10打点でベストナインに選出されている。

 そして迎えたレギュラーシーズン。故障者が続出していたチームの中で143試合に出場し.323 41本塁打 108打点 OPS1.003という来日最高の成績をマーク。巨人軍第70代4番としてその役割を十分に果たした。
また、8月1日には韓国通算300号の時と同じく王貞治,A.ロドリゲスに次ぐ史上3人目となる「20代での400号本塁打」を日韓通算で達成した。しかも、達成した試合に自身のサヨナラ本塁打で花を添えている点も3年前と同じという相変わらずのスターっぷりも流石だ。

 弱点だった左腕からも打率.338をマークし、完全体となった李承燁は3度目の正直でMLB移籍を模索する...はずだった。


6.怪我との戦い

 韓国代表の4番から巨人軍の4番として春先から走り抜けてきた代償が身体に現れない訳がなかった。

 最終盤に左膝を痛め、手術後のオフシーズンはリハビリに費やし、MLB挑戦は依然誘いがないこともあり三度断念。
 すると巨人と4年総額30億円とも言われる大型契約を締結。事実上のMLB挑戦断念とも取れる決断だった。

 2007年は日本通算100号本塁打を達成したものの、怪我の影響もあり、.274 30本塁打 74打点と成績を落とした。


7.最悪の3年間

 「最悪だったのは日本時代だ。特に2008年から3年間は本当に大変だった。パフォーマンスと実力で示せばよかったのだが、巨人では他の部分に対するストレスも多かった。
他のチームには申し訳ないが、巨人は比較対象のない最高のチームだ。だが、実力で認められなければこれほど冷たくされる球団もない。誤解もあったし、まるで小学生のように扱われることが耐え難かった。心に受けた傷が大きかった。」

 これは李が現役を引退した後に、韓国の新聞社が企画したインタビューで語ったものだ。
 この言葉が物語るように、2008年〜2010年の3年間は李にとって精神的なダメージが大きくのしかかった時期だと思う。

 08年は北京五輪が夏に開催される為、シーズン開幕前から韓国の英雄は大忙し。
 3月の予選で.478 2本塁打 12打点と韓国代表を牽引し、本戦出場に導くと、巨人軍合流後は調整不足により大不振。復調しないまま北京五輪本戦に出場すると当初は不振を引きずっていたが準決勝,決勝と本塁打を放ち金メダル獲得に貢献。韓国国内からの支持は高まるばかりだった。
 そして巨人軍再合流後は外国人枠の関係で起用法は定まらず。それでも首位阪神と3ゲーム差で迎えた9月19日からの直接対決3連戦は2ホーマー4打点と、メークレジェンド完結を手繰り寄せる活躍も見せた。
 しかし日本シリーズでは12三振を喫し戦犯扱い...と日韓両国で評価の分かれるシーズンとなった。


8.韓国には帰れない

 2009年、第2回WBC出場を辞退してまで体調を整えて臨んだシーズンだったが、開幕後は不振が続く。怪我もありながら77試合の出場で16本塁打をマークしたのは大砲の意地だろう。

 ちなみに私が見ていたのはこの時期の李承燁である。
 当時は凄いホームラン打者だと思ったものだが、今こうして思うととても苦しんでいた中での一発一発だったんだと感じると同時に、そんな時期でもあれほどの打球を放てるのだと感服する。


 2010年も調子は上がらず、自身最低の成績に終わり、終いには巨人軍のドン ナベツネこと渡邉恒雄に
「4年契約で大金払って、クソの役にも立たなかったってのもいる」
と間接的に痛烈批判されてしまう。

 "韓国代表 李承燁" と"読売巨人軍 李承燁" はまるで別人扱いを受けていたのだ。

 このまま退団し、韓国に戻ると「日本でディスられて帰ってきた」と言われてしまう。

 韓国国民に喜んでもらえればそれでいいのか

 そうではない。自分で選んだ日本行き。
 日韓両国民を喜ばせてこそのアジアの大砲だ。

「このままでは韓国に帰れない」

 もはや韓国の国民的打者としての意地とプライドだった。


9.日本最終年

 2011年、李はオリックス・バファローズのユニフォームに袖を通していた。
 6年ぶりにDHのあるパ・リーグに移籍したことで身体の負担が軽減。4年ぶりに100試合以上に出場し、打率こそ低かったが2年ぶりの2桁15本塁打をクリア。チームはAクラスには入れずも、夏場にサヨナラホームランを放つなど、随所で意地を見せてくれた。

 その後は韓国球界へ復帰するのだが、35歳の李承燁は決して燃え尽きておらず、その物語はまだまだ終わらなかった。


10.韓国復帰

 2012年、9年ぶりに古巣サムスンに復帰するといきなり3割20本をクリア。韓国シリーズではMVPに輝く。

 翌2013年は韓国通算本塁打記録を更新する352号をマーク。さらに翌2014年にはなんと37歳で3割30本100打点をクリアしてしまう。

 これに留まらず、2015年は国内初の通算400号本塁打達成、2016年には通算打点でも韓国記録を更新韓国通算2000安打日韓通算600号...と記録ずくめのメモリアルイヤーとなった。

 結局、韓国復帰した2012年から引退した2017年までの6年間全ての年で100試合以上出場&100安打をクリア。2度3割30本100打点をクリアするなど、韓国では衰えをみせないままユニフォームを脱いだ。


11.まとめ

 韓国球界では不動の人気と実力を誇り、「国民的打者」と讃えられた李承燁。

 国際大会では常に4番に座り、国を牽引。数々の記録を達成し、賞も総なめにしてきた超スーパースターは韓国と日本というアジアの野球大国2国でのしかかる莫大なプレッシャーの中で、我々ファンの記憶に強く残る活躍を残した。

 韓国では順風満帆な野球生活だったであろうが、なんといっても野球は小説とは違い、筋書きのないドラマだ。1度海を渡ると多くの苦悩や葛藤を味わった。しかし、それらもすべて李承燁を成長させる糧となったはずだ。

 MLB挑戦の夢は叶わなかったが、日韓通算23年間の選手生活を全うした事は"アジアの大砲"を全うした事とイコールで繋げるべきだ。

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