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「私」の『エヴァ』が終わる

※本記事は公開日当日を迎えるにあたり、自分にとっての『エヴァ』を整理するだけの備忘録です。執筆は本編鑑賞前ですので、本編に触れる内容ではございません。

まえがき

延期に延期が続くかたちとなったが、どうやら本当に今日・2021年3月8日(月)に公開されるらしい『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(2021/以降、『シン・エヴァ』)。自分が公開日を意識するくらい楽しみにしている映画が「月曜日に公開される」ということを含めて、なんだか気持ちが落ち着かない。

『エヴァ』はTVシリーズを含めて、私の喜怒哀楽のすべての原点になっているような気さえしてしまっている。それは自分でも大げさなような感覚もあり、実際エヴァのことを考えていない瞬間ももちろんある。しかし思い入れの深い作品をつい「あれは、あの物語は自分の人生のそのものだ」と、作品愛から陶酔に近い感覚に陥っていたいという願望すらある。友人・家族がこの記事を見れば「お前は一体何を言っているんだ」と失笑してしまうのもの必然、私も何を書いているのか分からないし、これからここに何を書くのか全く決められていない。
とにかく、新劇場版シリーズの完結編にあたる『シン・エヴァ』を目撃してしまう前に何をどう考えているのか、これまでどう作品と生きてきたかなどをまとめておきたいという一心でキーボードを叩いている。特にこれまでのストーリーに直接言及したり考察をするものではないが、これまでのTVシリーズ〜旧劇場版〜新劇場版にあたるアニメ作品はすべて鑑賞済み・かつそれについて触れることも厭わないスタンスなので、これまでの作品へのネタバレ等が気になる方はここでバックしてもらいたい。

エヴァに触れた時期

TVアニメの放送時期=1995年は私は4歳という幼さで、もちろんエヴァよりもドラえもんに夢中というお年頃、姉がエヴァチップス(お菓子)を買っていたような記憶が薄っすらあるくらい、白状してしまうとリアルタイムなエヴァ世代ではありながらリアルタイムで鑑賞はしていない。
初めて触れたのは高校生=15歳のとき。オリエンタルラジオの中田敦彦氏は自身がちょうど14歳=チルドレンたちと同じ年齢のときに観ていたというエピソードトークをされる度に「くそ、僕もあと1年早く観ておけば」と悔しさみたいなものを感じてきた。

きっかけは間違いなく『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』(2007/以降、『序』)だろう。「昔にやっていたアニメがリメイクするらしい」(厳密には「リビルド」)という軽い気持ちでその存在を知り、TVシリーズから観始め、得体の知れないゾクゾク感に支配された。それは「なんだかよくわからない」展開に、自分の考えや感情移入=キャラクターたちへのシンクロがいい具合に作用していたのだろうと今では思う。
学校に行けば、私が『エヴァ』を鑑賞したことをすでに『エヴァ』を通ってきた友人たちが喜んだ。「面白いでしょ」「格好良いでしょ」「ゾクゾクするよね」と、そんな感想が飛び交った。しかし、あれは一体何なんだ?という作品の本質や考察的なことを話したがるヤツは当時私の周りには一人もいなかった。きっと、みんな「自分のものにしている」のである。「いや違う。俺はこう思う」などと、「自分にとっての『エヴァ』」を誰かに否定されたくないのだ。

精神ダメージがでかい

新劇場版に対して「旧劇場版」と称される『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(1997)は自分にとってもかなり衝撃的だった。解釈がかなり分かれる強烈なエンディングとなったが、私としては「私の解釈」というものは持ち合わせており、それが世間一般的に言われる解釈と一致しているかは今も確かめていない。すでに書いたが、やはり「自分にとっての『エヴァ』」を否定されたくはない。

余談だが、この「旧劇場版」は、リアルタイムで作品を追ってこなかった自分にとっては、DVDレンタルや映像配信サービスでしか観たことがなく、つまり「他人」と鑑賞するという経験をせずに生きてきた。それが今年2021年1月に、『シン・エヴァ』公開記念ということでリバイバル上映がされていた期間があり、かなり迷ったが思い切って映画館に足を運んだ。
結果、後悔した。他人と同じ空間で観る作品ではなかった(これは私なりの最上級の褒め言葉である)。
今までたった一人、部屋で観ることしかしてこなかった「旧劇場版」は、私にとって最も誰かと観たくない映画として暫定1位となった瞬間だった。これが2021年の出来事というのだからおもしろい。

新劇場版の思い出

今日公開になる『シン・エヴァ』を4作目にして完結編とする、いわゆる新劇場版シリーズはすべて映画館で鑑賞してきた。『序』はエヴァそのものを初めて浴びてすぐに観たということもあり、そこまで強烈な記憶は正直残っていないが、2作目・『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(2009/以降、『破』)への期待度は、当時半端ではなかった。同級生5人で、札幌・豊水すすきの駅すぐの劇場で鑑賞、翌日の教室でも『破』の話ばかり。『破』後はかなり長い期間、私は人生最も濃く『エヴァ』に支配され続けた。「こんなに面白いと感じる体験ははじめて」だった。

『破』の上映前もそうだったが、特に『破』から次作公開までの3年間は過去の予告映像や考察サイトなどを狂ったように漁る日々の連続だった。それくらいにハマってしまった。

3作目・『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(2012/以降、『Q)』の公開日を常に待っていた自分は、とあるエヴァ関連のイベントをきっかけに「東京」へ強い憧れを抱くようになる。それは、「EVA-EXTRA08」と題されて東京・新宿にて行われた、映像上映イベントである。
これまでの『序』〜『破』までのダイジェストを大きな「PLAY BACK」の文字とともに上映し、その後初解禁となる『Q』の最新映像とともにはじめて正式な公開日が発表されるというイベントだった(当時の映像はYouTubeなんかを検索すれば出てきそうなものだが、権利関係がやや不明なのでここで紹介することは避ける)。
当時、札幌に住んでいた自分はこのリアルタイム性のあるイベントを享受できないもどかしさで頭を抱えた。「東京にいれば」と何度考えたことか。
今となっては「東京でしか味わえない」という体験も減りつつあるが、当時は深夜アニメを観たくても動画配信サイトでの配信日を待たなければいけないような環境だった(東京での最速放映日よりもだいたい1週間遅れなどで配信される)。インターネットで生きていた自分は、同じ国にいながらにして「遅れている」感覚を味わった、良い思い出である。

ちょっとした思い出話だが、『Q』は公開当日初回上映の回にスーツ姿で映画館に出向いた。当時就職活動中で、映画上映終わりに面接が入っていたのだ。ぎこちない慣れないスーツ姿で映画館に行った、現状最初で最後の経験である(その後、きちんと面接に行ったかどうかは本当に覚えていない)。

『シン・エヴァ』に期待していること

正直、なにもない
終わってしまうということを目撃しにいくという行為をするだけ、と言ってしまったほうが楽かもしれない。ストーリーの続きが観たい!という気持ちはびっくりするほどに無い。
ただ、自分の人生を支え、時には弊害となってしまうこともあり得た作品の終わりを見届けるということはしなくてはならない。しないまま、死ぬわけにはいかない。

正直、延期の発表を受けるたびに本気で「まだ生きなきゃいけないのか」と苦悩した。もし、明日交通事故に遭って死んでしまったら、自分はエヴァの終わりを観ることなく死んでしまうんだという恐怖。死ねない、エヴァを観るまで死ねないと冗談っぽく周りに言い続けてきたが、何の冗談でもないただの本音である。
『Q』までの物語を、きちんと説明しきってくれることを望んでいるエヴァファンなどいるのだろうか? というくらいに、『エヴァ』はそういう体験であり自ら考え自分なりの答えを出すような作品だと思っている自分がいる。どう受け止めるかで評価が変わる。面白い面白くないで判断がつかない、少なくとも私にとってはそんな作品なのだ。

『シン・エヴァ』で何が起こるのかはさっぱり分からない。正直、謎解きや考察なんかも大好きなので、1つだけ望むとすれば、サブタイトルになっている「3.0+1.0」がきちんと納得できるような構造になっていたら嬉しい。なっていなくても拍手を送りたい。

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