Angel-Doll1-ヘッダー

act3 : Tue. Dec. 19th

第1話 act1 : Sun. Dec. 17th から読む



窓から差し込んでくる陽の光が眩しくて、目を開けた。
重いまぶたをこすりつつ、ベッドから起き上がる。
ぼんやりとした頭を抱えて、傍らのデジタル時計に目をやった。

PM 5 : 18

「……はっ?」

──PM、だって?
霞がかった思考が、さっと晴れていくような心地がした。
今は「午後」五時すぎ。
てっきり朝だと思い込んでいたぶん、衝撃は大きかった。
一体どれだけ寝ていたというのだろう。
いつ眠ったかは憶えていないが、そう遅くはなかったはずだ。
しかし、どう少なく見積もっても、半日以上は寝ている計算になる。
夕陽に黄色く染まった部屋を見渡しながら、
時間を浪費してしまったことを後悔した。

傍らを見れば、リンはまだ眠っている。
規則的で、平和そうな寝息を立てていた。
毛布にくるまって丸くなっているさまは、さながら猫のようだ。
「凛」が、いつでも俺の手の届く場所に居る。
そんな、幾度となく巡らせた空想が、現実のものとして目の前にあるのだった。

「……うぅん」

リンがもぞもぞと寝返りを打ち、蒼白い肩が剥きだしになる。
それを目にした途端、昨晩の記憶が脳裏にありありと蘇った。
彼女を抱いた時の感触が、まだ身体に残っている。
少し力をこめただけで折れてしまいそうな、細い肢体。
それでいて肌は柔らかく、温かで。
かすかな吐息と、鳴くような喘ぎすら、耳に今なお張り付いている。

──湧きあがる雑念を振り払うようにして、自分の頬をはたく。
鈍い痛みが脳を揺さぶり、これが夢ではないことを再認識した。
ずり下がった毛布を引き寄せ、はだけたリンの肩を覆う。
それから、俺は洗面所へと向かった。

顔を洗うと、気休め程度ではあるけれど少しはさっぱりする。
ふと足元に目を落とすと、バスケットが洗濯物で溢れかえっていた。
思えば、リンが来て以来ろくに洗濯をしていなかった。
やれやれと独りごちて、バスケットの中の衣類を洗濯機へと移していく。
その手を止めたのは──見慣れた自分の衣服の山に、
ひっそりと埋もれた黒装束を見つけた時だった。

確か、リンがもともと身につけていたものだった。
泥にまみれ、所々に破れかけた部分さえある。
みずぼらしい一枚服は、平穏な日常に紛れこんできた非日常──
リンの存在を、この上なく体現していているように思えた。
この服をリンが着るかどうかは分からないが、
ひとまず洗っておくに越したことはないだろう。
無造作に服をつかみ、洗濯機へと投げ込もうとしたところで、
違和感を覚えた。

その衣服は、ずしりと重かったのだ。
軽く振ってみると、ちゃり、と金属がこすれ合うような音が鳴った。
さしずめ、ポケットに財布でも入れているといったところか?
疑問に思い、黒服を探ったところで、内ポケットに固い手応えを感じた。
「それ」を何気なく取り出すと同時に、俺は息を呑んでいた。

──拳銃だった。

鈍く黒光りする銃身は、異様なまでの禍々しさを放っていた。
エアガンのような玩具の類ではないことは、素人目にも明らかだった。
加えて言えば──服には、いまだ不自然な重みが残っている。
俺は拳銃を洗面台に置き、衣服を逆さまにして一気に翻した。
瞬間、ばらばらと金色の塊が床に散らばり、高音を奏でる。
色こそ金だが、それは金銭でもなければ宝石でもなく。

そこかしこに転がっていたのは、銃弾だった。

氷水を浴びせられたように、意識が急速に覚醒していく。
叫びどころか、うめき声さえ出なかった。いや、出せなかった。
それは単に、目の前の光景に認識が追いつかなかったからだろう。
驚きを通り越して、愕然としていたからなのだろう。

「……なんだよ、これ……」

やっとのことで、俺はつぶやく。
蚊の泣くような自分の声が、やけに大きく耳に響いた。
悪夢かと疑いたくなるような現実は、やがて圧倒的な質量を伴い、
思考を押しつぶそうと迫ってくる。

──落ち着け、落ち着くんだ。

頭がずきずきと痛む。眉間に指を添えたところで、
自分の手がどうしようもなく震えていることに気付いた。
紛れもない、恐怖心の表れ。
それを自覚すると同時、今さらのように
疑念と焦燥がふつふつとこみ上げてくるのを感じた。

リンはどうして、こんなものを?
……もしや、俺を殺すために?

良からぬ推測が浮かび、全身にぞっと悪寒が走った。
ひんやりとした得体の知れない不安が、背筋を流れ落ちていく。
その一方で、胸の内にもやりとしたものがよぎった。
ふとした違和感。あまりにも漠然としていて、
最初はその正体が分からなかった。
しかし、だんだんと冷静さが戻ってくるにつれて、
その輪郭がはっきりと形をもつのが分かった。

……よくよく考えてみれば、不自然なのだ。
仮にリンが俺を殺すつもりだったのなら──
なぜ、俺はまだ生きているのか?

リンがここに来てから、今日で三日目になる。
その間、俺の命を奪う機会はいくらでもあったはずなのだ。
思い返せば、俺はリンのことを疑ってこそいたものの、
警戒はほとんどしていなかった。
はっきり言って隙だらけだったと自分でも思う。
無防備に眠り込んでいるところを襲いでもすれば、簡単に殺せたことだろう。しかし、現に俺は生きている。
そもそも、この衣服を──拳銃と弾丸を、
こうして放置していること自体がおかしいのだ。
仮に「殺し屋」ならば、普通は相手に気付かれる前に
回収なり処分なりしておくものだろう……。

そこまで考えたところで、ふと思い当たったことがあった。

──発砲事件が近くであったんですって。
きのうの朝、ゴミ集積エリアで耳にした会話。
そして、リンの右脚に穿たれた、銃痕を思わせる傷。

──おまえは事件に関係しているのか?
あの時、俺はリンにそう尋ね、彼女は否定しなかった。
何者かに追われている、ということはうっすらと察しがついた。

話題に上っていた「発砲事件」というのは、
要するに、リンの逃走劇の結果だったのではないか。
リンと、彼女を追う何者かの間で、銃撃戦が展開された。
そう考えれば辻褄も合うのではないか?
だとすれば、単に護身用として持ち歩いていたというのが自然だろう。
今までのやり取りにおいて、
彼女からは殺意どころか敵意すら感じられなかった。
おそらく、俺に危害を加えるためのものではない……。

そう結論づけて、大きく息を吐いた。
全身が強ばっていたことに気付いて、ふっと力を抜く。
我ながら、都合の良い解釈だと思う。楽観に過ぎるとも思う。
のんきに構えていないと精神的に持ちそうにない、
というのが本当のところだった。

「……信じるしかない、か」

なおも巡ろうとする思考を打ち切り、俺は腰を屈める。
そうして、床に散らばった銃弾を一つずつ拾い集めていった。

拳銃と銃弾は、居間の引き出しにしまっておいた。
廃棄しようとは思わなかった。
かといって、これを理由にリンを問い詰める気も起きなかった。

キッチンに立ち、インスタントもののコーヒーをいれる。
眠気はとうに消え去っていたが、無性に飲みたくてたまらなかった。
連続する非日常的な出来事のさなかにあって、
普段の習慣がとても貴重なものに思えたからだ。
でき上がったコーヒーをすすると、心地よい苦みが口に広がった。
──今は、考えこんだところで仕方がない。
尋ねられたら返せばいい……その程度に、心に留めておくことにした。
カップを手に、いつものようにノートパソコンを開く。
大学から何か連絡が来ていないか、確認しておかなければ。
起動画面が立ち上がり、ほどなくしてトップ画面に遷移する。
俺は、画面の端にある着信欄に目を走らせた。
メールは0件。そして、パソコン通話の不在着信が32件。

「……32件!?」

尋常ならざる着信回数に、慌てて履歴を確認する。
着信履歴は、上から下まで「鈴木拓郎」の表示で
ずらりと埋め尽くされていた。
呆気にとられているところに、タイミング良く着信音が鳴り響く。
発信元は、やはり鈴木からだった。
受話アイコンを選択すると、
パソコンの画面いっぱいに鈴木の顔が映し出された。

「ったく、やっと出てくれたか」

気怠げな調子で喋る鈴木からは、
うんざりとした気配が見て取れる。
しかし、それはこちらとしても同じだった。

「わざわざ数十回もかけるぐらいの用かよ?
 だったら、まずは携帯のほうに連絡しろよ……」

「おまえな、その携帯を俺ん家に忘れてたぞ。
 だからこうして連絡せざるを得ないんじゃん」

そう言って、鈴木は俺の携帯をひらひらとかざしてみせる。

「あー……そうだったのか、ごめん」

「その反応だと、今までずっと気付いてなかったのか?
 マジで? アナログ人間だとは知ってたけど、
 要するにただの鈍感なんだろ」

「うるさいな……色々あったんだよ、
 おかげで携帯のことなんて考える暇もなかったんだ」

「ふーん……『色々』ねぇ。
 それは大学の試験をサボるくらい大事なことなんか?」

そうだった。鈴木は俺と同じ講義を履修しているのだ。
結局、今日も大学をサボってしまった。
これで二日間、大学に行っていないことになる。
試験期間の真っただ中だというのに、だ。
受けるはずだった試験を、ことごとくすっぽかしてしまっている。
普段は鈴木と一緒に講義を受けていたから、
欠席すればすぐに分かってしまうのだ。
けれども、罪悪感はほとんどない。
いっそのこと、リンが去るまでは、
家から出ないでおこうとさえ思うようになっていた。
もっとも、その頃にはすべての試験が終わってしまっているのだけれど。

「今まで全出席のおまえが
 無断欠席したもんだから、教授も驚いてたぞ。
 よっぽどの事があったんだろ? 一体どうしたよ」

理由なんて言えるわけがなかった。
凛に似たエンジェルドールが突然現れて、試験どころじゃなかった……
と説明したところで一笑に付されるだろうし、
仮に信じられたとしても、
それはそれで面倒くさい事態になることは容易に想像できた。
ここは無難に「体調不良」としておくべきだろう。

そう考え、口を開きかけたところで──
ばたん、と何やら大きな物音がした。
間を置かず、どたばたと慌ただしい足音が迫ってくる。

やばい、と本能的な直感が走る。
しかし、時すでに遅かった。
ばん、と勢いよく背後のドアが開かれる。
──そこには、リンが今にも泣き出しそうな表情で立っていた。

「テツくん大変、ごき、ごきぶり! ごきぶりが部屋に!
 殺虫剤どこなの!?」

「……っ!?」

その時、自分がどんな顔をしていたかは分からないけれど。
おそらく、俺は切羽詰まった表情を浮かべていたのだろう。
その証拠に、リンは俺を一目見て異変に気づいたようだった。
リンの視線が、俺の顔からパソコン画面にゆっくりと移動する。
そこに映った鈴木を見るや、ようやく事態を把握したようだった。

瞬間、リンは弾かれたように身を翻し、
部屋から出ると即座にドアを閉め切った。

……続く足音は、聞こえてはこない。
ドア越しに、こちらのやりとりを窺っているようだった。

「……おい、哲……」

鈴木の声に、心臓がびくりと跳ねる。
おそるおそる、パソコン画面に視線を戻す。
鈴木は呆気にとられた様子で、口を半開きにしたまま固まっていた。

「今の……凛、なのか?」

まるで幽霊や幻を見たかのような、気の抜けきった口調。
俺は、何も答えられなかった。予想外の事態に混乱しきっていた。

──見られてしまった。よりによって、幼なじみの鈴木に。

今のやり取りで、鈴木はリンのことを
人間の「凛」だと認識したに違いない。
鈴木は次にこう問いかけるだろう。
「どうして凛がここにいるんだ?」と。

口ごもる俺を見て、鈴木は──「なるほど」とつぶやいた。

「やっと買ったんだな、エンジェルドール!
 んだよ、それならそうと言えばいいのに」

「……へっ?」

「そっかそっか、カスタマイズには時間がかかるもんな。
 あれだけ似せるにはさぞかし苦労しただろ?」

どうやら鈴木は、俺がエンジェルドールを
購入したと思っているようだった。
納得したように満面の笑みを浮かべ、しきりに独りでうなずいている。

「そういう事情なら、確かに試験どころじゃないわな。
 いやぁ驚いた、凛そっくりじゃん!」

鈴木の瞳は、目に見えて輝きを増していた。
ディスプレイを突き破らんばかりの勢いで、興奮気味にまくし立てる。

「なぁ、今度の月曜日、おまえんちに行っていいか?
 アルミも連れていくからさ!
『購入記念』ってことで、ぱーっと祝おうぜ!」

鈴木の勢いに少し気圧されつつも、
とっさに俺は間に合わせの言葉を絞り出していた。

「いや、ちょっとそれは……
 その頃にはもう、あいつはいないかも。その……期限付きというか」

リンとのやり取りが、ふっと脳裏をよぎる。
「一週間だけでいいから」──そう、彼女は言っていたはずだった。

「ああ、レンタルってことか。
 それにしては、ちゃっかり教育してるじゃん。
『テツくん』なんて呼ばせちゃってさ」

「うっ……」

色々と訂正してやりたい衝動に駆られるが、
何もわざわざ事実を説明する必要はない。
せっかく鈴木が都合よく「勘違い」してくれているのだ。
不本意ではあるが、耐えておくしかなさそうだった。

「しかし凛のドールねぇ……
 いざ目にしてみると、ちょっと複雑な気持ちになるな」

鈴木が、どこか懐かしむように目を細める。
凛との思い出は、鈴木にも多いのだろう。
遠くを見つめるような仕草とともに、しばしの緩やかな沈黙が訪れた。

「……昔、俺がおまえと喧嘩したこと憶えてるか?
 俺が凛のことを『ロボットみたい』って言って、
 おまえがブチ切れたんだ」

「……そんなこと、あったか?」

凛は大人しくて、感情を表には出さないタイプだったけれど……
それだけでロボット呼ばわりするのは正直どうかと思う。
確かに、鈴木ならば安直にそんなことを言っていそうな気はするが。

「中学の頃だ。忘れるほど昔の事じゃないと思うんだけどな。
 ……俺の中では、インパクト充分な出来事だったんだぜ?
 なんせ、病院の中で殴り合ったんだから」

「はぁ? どこのバカだよ。
 そんな非常識なこと、した覚えなんて──」

記憶の引き出しをさらってみるが、一つとして憶えはなかった。

「凛のやつ、病弱だっただろ。入退院もずっと繰り返してたし。
 で、俺とおまえが、あいつの見舞いに行った時だ。
 本当に憶えてないのか?」

「いやいや、凛は別に病弱じゃなかっただろ?
 確かに身体は丈夫じゃなさそうだけど、
 特に大きな病気やケガもなかったはずだ。
 ……第一、俺は凛の見舞いに行った憶えがない」

「……おまえ、マジで言ってんの?」

鈴木は不審そうに眉をひそめる。
憶えていないわけがない、とでも言いたげな口ぶりに、
こちらも自然と語気が荒くなる。

「それはこっちの台詞なんだが?」

本当に思い出せないのだから仕方ない。
お互い、凛とは長い付き合いなのだ。
それにも関わらず、俺と鈴木の間では
凛に関する記憶が食い違っているようだった。

かみ合わない会話、浮き彫りになる認識の溝。
不意に、得体の知れない気持ち悪さが背筋を伝った。
自分の記憶を否定されるということは、自己を否定されるに等しい。
ふざけている素振りや嘘の気配は、鈴木からは感じられなかった。
だからこそ、不安は募る。
お互いに探り合うような、無言の時間が流れた。
さっきとは違う、気まずい沈黙だった。

「だっておまえ、凛は……って、おわッ!?」

鈴木が口を開きかけた瞬間、画面横から「影」が飛びかかってきた。

「たっくぅーん! 誰と通信してるの?
 もしかして他の女なの、ねぇ?」

聞き覚えのある、甘ったるい猫撫で声。
鈴木に抱きついてきたのは、アルミだった。

「いまリンって言ってたよねー?
 どれどれ、どんな子なのかなぁ、っと」

画面越しに、俺とアルミの視線がかち合った。
途端に、アルミは「うげっ」と聞こえよがしに声をあげる。

「……なんだ、あんたかよ」

先ほどまでの、跳ね上がるようなテンションはどこへやら。
あからさまに不機嫌な声音になったアルミは、俺をじとりと睨みつけた。
険悪な雰囲気が、映像を隔ててもなお、こちらにまで伝わってくる。
おとといの一件を、いまだに根に持っていることは明らかだった。

「まぁアルミ、落ちつけって。
 そうそう、哲がついに『エンジェルドール』を購入……
 じゃなかった、レンタルしたんだとさ!」

鈴木が、とりなすようにアルミに話しかける。
しかし、リンのことを話題に出したのはまずかった。
鈴木としては、良かれと思って言ったのだろう。
自分と同じく、エンジェルドールを持つ人間が
増えたことを喜んでいたのだと思う。
そして、それをアルミも喜んでくれる、と踏んでいたのだろう。
しかし、あの出来事の後とあっては、話が違ってくる。
案の定、アルミの表情は柔らかくなるどころか、
より一層厳しいものへと変わっていった。

「それもな、哲の彼女にホントそっくりなんだ!
 凛っていうのは、その子の名前なんだよ」

鈴木の言葉に応じるかのように、
アルミの口元が皮肉たっぷりに歪められる。

「ふーん、ほーう。
『所詮は人形』とか言っておいて、結局はレンタルしちゃったんだ?」

鈴木の表情に焦りが滲んだ。
余計な一言を発していたことに、今更ながら気付いたらしかった。
同時に、それがアルミの「怒り」の発火点に油を注いでいたことにも。

「そっかぁ、おめでとー。
 たしか、あんたのカノジョって行方不明なんだってね?
 おととい、あんたが帰った後でたっくんから聞いたよ。
 ──結局、寂しさには勝てなかったってこと?」

「おい、アルミ……」

「ほんっと、笑っちゃうよね。あれだけ嫌そうなフリをしておいて」

俺はただ、押し黙るしかなかった。
こちらの沈黙に乗じて、アルミの声が鋭さを増した。

「ねぇ、何か言いなよ?
 どうだった? カノジョに似せたドールは?
 分かってるよ、どうせまた『所詮は』って言うんでしょ?
 『やっぱり違う、あいつはこんなのじゃなかった』って
 感傷に浸ってるんでしょ!?」

「──アルミ!!」

鈴木の一喝が、スピーカー越しに鼓膜をぶるりと震わせた。
アルミは動じた様子もなく、射るような視線を真っ向からぶつけてくる。

背にしたドアの向こうで、衣ずれの音が細く響いた。

……リンは、どんな気持ちでこの会話を聴いているのだろう。
内蔵された心理プログラムは、どんな反応を示しているのだろう。
おそらく、良いものではないに違いない。
それでも、背後から気配が失せることはなかった。
俺の返答に注意を傾けている様子が、手に取るように分かる。

目を閉じて、リンの表情を想像する。
そこにあるのは不安? 怯え? それとも、諦め?
おそらくは、どれもが正解だろう。
彼女を「堂崎凛」として、人間として扱うことを
決めたのは、他ならぬ自分だった。
その不文律が破られることを、リンは予感しているのだと思う。

己に問う。
挑むようなアルミの言葉を、胸の内で反芻する。

──凛はこんなのじゃなかった、って?

迷うまでもなかった。答えは分かり切ったことだった。


「……何も、違わなかったよ」



にわかにアルミの表情が変化する。
予想外だったのか、言葉の真意を探っているように見えた。

「何から何まで同じなんだ。
 文句のつけようがないくらいに。
 正直なところ驚いたし、逆に戸惑った」

容姿も、声も、記憶さえも。
「似ている」のではなく、「同じ」だった。
身体が憶えていた。心が感じていた。
「凛」の面影を見出すたびに、嬉しさに打ち震え、そして恐れた。

「──だからこそ、苦しくてさ」

本能が「リン」を「凛」として認識しようとするたび、
理性は猛烈に反発する。
まぶたの裏に浮かぶのは、足裏のエンブレム。
そして、身体に刻まれた無数の傷──ひときわ大きい、右脚の裂傷。
どれもが明確に、その異常性を主張している。
リンの存在を拒否するには、充分すぎる材料が揃っていた。
それ見たことか、と理性は騒ぐ。
許容してはならない、と声の限りに叫び出す。
エンジェルドール。人形。人ならざるモノ。

──だから、何だというのだ?

「色々と迷いはあったけど、今はもうどうだっていいんだ。
 アルミが鈴木にとって大事な彼女であるように、
 あいつは俺にとって大事な存在なんだ」

「……この前とは、えらい変わりようじゃない」

アルミの声からは、毒気が抜けていた。
意表を突かれた様子で、戸惑いさえ漂わせながら、
怪訝そうに首を傾げている。
無理もない。
ほんの数日前に、ドールを見下すかのような発言をした人間が、
今は打って変って擁護しているのだから。

ドールの事を好ましく思わない人間──
かつての自分のような奴が見れば、茶番だと思うに違いない。
人形に骨抜きにされた、軟弱な野郎だと嘲笑われることだろう。
苦しい自己弁護はよしてくれ、と憐れまれるのかも知れない。

それでも構いやしなかった。
笑わば笑え。こちらだって、逆に笑いとばしてやれる。
ふんぞり返って、開き直れるだけの自信がある。

今やリンは俺にとって「凛」であり、同時に「人間」なのだった。
腑に落ちない顔をしているアルミに、自嘲気味に笑ってみせる。

「──所詮は、人間だからさ」

心は変わる。変わってしまう。
けれども、不思議と心地よかった。
ドールを避けていた過去の自分は、とうに遺物と化していた。
人形に頼ってはならないと、かつては頑なに思っていたのに。
リンの突飛な「来訪」をきっかけに、凍てついた認識は溶かされていた。

もちろん、いまだに疑念はある。
結局のところ、リンは「凛」ではない。
その正体は、彼女の口から話されるまで分からないままなのだ。
「リンは堂崎氏によって制作されたドール」という仮説だって、
俺が週刊誌のゴシップをもとに組み立てた稚拙な想像にすぎない。
けれども、そういった諸々のマイナスを差し引いてもなお、
俺の感情はプラスの収支を弾き出していた。

「すごく、救われたんだ」

画面越しのアルミに対して、そしてドアの向こうのリンに向けて。
俺は力強く、そう言い切った。

「良い顔してるじゃんか。
 おととい会った時とは……いや、今までとは別人みたいだ」

アルミの後ろに控えた鈴木が、笑って言った。

「なぁ、哲。『凛』と話してみてもいいか?」

「……『凛』として……人間として扱ってくれるなら」

「了解」

鈴木はごく自然な調子で応じてくれた。
その表情にからかいや侮蔑の色は微塵もなく、
ただ真摯にドールと向き合おうとする意思が感じとれた。

「ところで、『凛』は俺のこと知ってるの?」

「ああ。昔の記憶はひと通り備えてるし、
 人間関係も把握してるみたいだ」

「マジかよ! おまえってば『記憶システム』も利用したんだな?
 はー……さすがに金持ちは違うわー。
 レンタル品だってのに惜しみなく金かけやがって!」

鈴木が心底うらやましそうに頬を膨らませる。
彼の言っていること──「記憶システム」──は、
ドールにさほど詳しくない自分にはよく分からなかった。
とりあえず、彼のなかでは、リンが俺たちと
同じような記憶を持っていることに対して納得がいったらしい。

想像するに、エンジェルドールの関連商品なりサービスには、
そういった「記憶」に関するものも存在するのだろう。
俺はただ、苦笑いしてお茶を濁しておくことにした。

「リン、まだそこにいるんだろう?
 部屋に入りなよ。鈴木が話したがってる」

背後で再び、ずずっ、と大きく衣ずれの音がした。
ドア越しに、驚いているリンの様子が目に浮かんだ。
まさか、俺に気付かれていないとでも思っていたのだろうか。
やがてドアが開き、おずおずとリンが居間に入ってきた。
心なしか、その眼がうっすらと赤いように見えたが、
たぶん気のせいなのだろう。
彼女は隣の椅子にちょこんと座り、鈴木に微笑みかける。

「久しぶりだね、鈴木くん。……『凛』です」

「ああ、久しぶり……『凛』」

それだけの言葉を交わした後、にわかに鈴木は黙りこくってしまう。
不審に思ったのもつかの間、鈴木の顔がみるみるうちに紅潮していく。
目尻から頬へと、大粒の雫が流れていった。
……鈴木は、音もなく泣いていた。

「いや、あれだよほら、これは……感極まって心の汗が……」

そんなふうに言い訳して無理に笑うものだから、
顔は余計にくしゃくしゃになっていた。

「なんだよ、まだ『久しぶり』しか言ってないだろ……」

そう言って笑う俺だって、
鈴木から貰い泣きしそうになるのを堪えていた。
鈴木はといえば、すでに鼻をすすっていたりする。

「ははっ……いざ目の前にすると、何も言えなくなるもんだな……
 うん、おかえり、『凛』」

「……ただいま」


「ねぇ哲。こんな時になんだけど、ひとつ質問していい?」

アルミの顔が、再び画面横から割り込んでくる。
いきなり名前で呼ばれたことに、若干の驚きを感じた。
そういえば、アルミから名前で呼ばれたのは初めてじゃないか?
そんなことを頭の片隅で思いながら、「なんだ」と返した。

「──どうしてジャージなんか着せてるの?
 しかもそれ、男ものだよね……もっとマシな服があるでしょ!」

「あ、実は俺も気になってた。
 つーか高校の時のジャージじゃんか、それ」

鈴木の補足に、アルミが「うっわ」とことさらに眉をひそめる。

「ちょっと信じられない、
 最初から最低三着はオプションで付いてくるはずで……」

アルミが言葉尻を濁すが、おおよその内容は察しがついた。
どうやら、購入であれレンタルであれ、ドールには
性別に応じたコスチュームが添付されているということらしい。
しかし、リンがここに来た時に
身につけていたものといえば、怪しさ満点の黒装束。
あれが正規のコスチュームだというならば、
カンパニーにクレームを入れるレベルの代物だ。
もちろん、そんなはずはないとは思うけれども。

「あー……手違いというか、ちょっと色々あってな。
 着せる服がなかったから、とりあえずの代用品なんだ。
 たしかに、似合ってるとはいえないけど」

「いや、俺は支持するぞ! 非常に良いチョイスだと思う!
 うん、さすが哲だ。きちんとツボを分かってる!」

「たっくん、ちょっと黙ろっか」

「あっはい」

しょぼくれた鈴木の横で、アルミがこれ見よがしに肩をすくめる。

「凛ちゃん、かわいそう……。ねぇ、服を買いに行こうよ。
 その時いっしょに携帯返せばいいでしょ?
 凛ちゃんも一緒に連れてきてよー」

「……えっ?」

唐突な提案に、思考が停止する。
画面の向こうでは、鈴木が「いいなぁそれ名案じゃん」などと賛成していた。

「よし、俺も行く!」

「たっくんは明日、検査とバイトがあるんでしょ?」

「あー、そうだったわ……残念」

「いやちょっと待て、勝手に話を進めるなって」

今のリンを、鈴木やアルミに直接会わせたくなかった。
いや、直に対面させたいのはやまやまだが、リンは身体に傷がある。
それも、大いに目立つものだ。
そこにきて、「服を買いに行こう」とのお誘いである。
ただ単に会うだけなら、長袖の服などで
傷を隠してやり過ごせるかもしれない。
しかし、一緒に服を買うとなれば、
試着のために幾度も服を脱がなければならない。
それだけ、リンの傷が人目に触れるリスクが高くなるわけだ。

……それに一応のところ、リンは俺に「匿われている」状態なのだ。
彼女だって、なるべくなら外出したくないに違いない。
リンの方を向き、目配せして尋ねてみる。
予想通り、彼女は申し訳なさそうに小さくかぶりを振るのだった。
俺は頷き返すと、液晶ディスプレイへ再び視線を戻した。

「えっとな……『凛』は明日、事情あって行けなくてさ。
 行けるのは俺だけなんだ」

「えー、つまんない! じゃあ服の方はまた別の日に……」

「いやいいよ! 服選びには俺が付き合うからさ!
 それに、ジャージ姿の『凛』と服を買いに行くのも恥ずかしいし!」

「むー……」

不平たらたらといった様子で、アルミが眉根を寄せていた。
こればかりは仕方がないのだ。
何としてでも、リンが服を買いに行く事態だけは
絶対に回避しなくてはならない。

「なぁ哲、ところで『凛』はいつ『一時帰宅』するんだ?」

のんびりとした口調で、鈴木が言った。
鈴木の意図するところは、
「リンのレンタル期限はいつまでなのか」ということだろう。
それを直接言わず、婉曲的な表現で置き換えている。
彼なりの配慮らしかった。

……リンがここにやってきたのは、おとといの日曜日だった。
「一週間だけでいい」というリンの言葉に照らし合わせれば、
期限は来週の日曜日ということになる。

「来週の日曜日……だったかな」

俺がそう告げるなり、鈴木の顔が曇った。

「え? おいおい、その日っておまえの誕生日じゃんか。
 よりによってそのタイミングで『一時帰宅』させるのかよ」

「……あっ」

言われて、初めて気付く。そうだ、その日は俺の誕生日なのだった。
自分でも完全に忘れてしまっていた。

「なぁなぁ、せっかくだから『凛』が帰る前にWデートしようぜ!」

「待てよ、いきなりそう言われても……」

「日にちはどうしようか?
 ……そうだな、試験が終わるのが金曜日だろ、
 よしじゃあ土曜日にすっか!」

鈴木が一人で盛り上がっている。
まるでこっちの話を聞いちゃいない。
こういう時の鈴木には何を言ってもダメなのだ。
なおもデートプランをつらつらと並べる鈴木だったが、
その横からアルミが割って入ってきた。

「とりあえずは明日のことだよ!
 待ち合わせ、お昼の一時に駅前ってことでいい?」

「ああもう、分かったよ。携帯、忘れないで持ってきてくれな」

「Wデート、俺はやる気満々だからァ──!!」

悲痛な叫びがスピーカーを震わせ、室内に木霊する。
はいはい、と曖昧に笑い返しながら、俺は通話を終了させた。
嵐のような騒がしさがふっと消え、室内に静寂が戻る。

「鈴木くん、元気そうだったね」

嬉しそうに、しかし儚げにリンがつぶやいた。

「……ああ」

椅子に背を預け、通話の余韻に浸る。
隣にいるリンもまた、じっと天井を見上げて
物思いにふけっている様子だった。
ゆったりとした静けさに身を委ねつつ、リンとの別れを思う。

少しの迷いの後、俺はできるだけ気軽な調子で問いかけた。

「リンがいなくなるのは……来週の日曜日、なのか?」

明確に日にちを指定されていたわけじゃない。
それに関して、リンは「一週間だけでいい」としか言わなかったのだから。
そう、きっちり一週間でここを去るどうかは分からないのだ。
単に、ざっくりとした目安なのかもしれなかった。
淡い希望が、顔をのぞかせる。
もしかしたら十日ぐらい居たりして。
いや、何だかんだ言って二週間や三週間、ややもすれば一ヶ月?
そんな短い時間じゃなくて、ずっとずっとこの先も──

「──たぶん、そう。日曜日なの」

静かに、淡々とリンは言った。
驚くほどに無機質で、温度の無い声だった。
芽生えかけた期待は呆気なくむしり取られ、
胸が締めあげられるようにきりりと痛む。

「……望むなら、ずっとここに居てもいいんだけれど」

そう言って、どうにか笑いかける。
けれど、彼女は笑い返してはくれなかった。
見れば、その横顔からは表情が消え去っていた。

「ありがとう……でもね」

うつむくと同時に途切れる言葉。
しかし、それも一瞬のことだった。
再び上げられた顔には、能面のような笑みが張り付いていた。

「一週間で、お別れしなくちゃいけないから」

寂しげな物言いとは裏腹に、そこには断固たる意思が宿っていた。
今度こそ、俺は押し黙るほかなかった。

「──だからね、少し早めにテツくんの誕生日をお祝いしたいの」

 ……えっ?

「せっかくだから、ゆっくりと時間を過ごしたいよね。
 明日はお買いもので、時間もないだろうし……あさってはどうかな?
 テツくん、何か用事ある?」

俺はぶんぶんと首を横に振る。
本当は試験で予定がぎっちり埋まっていたけれど──
この際、問題じゃない。

「ヒマだよ。ものすごくヒマだから」

よかった、とリンが安心したようにつぶやいた。

「そうだ、夕飯……腹、減っただろ?
 何か買ってくるよ。欲しいものあるか?」
「えっと……青汁パンと」
「ドリアンミルクか。とりあえず、その二つだな。
 他にも色々買ってくるから」

思わず笑いそうになりながら、机の上の財布をつかみ、居間を出る。

──と、足元でくしゃりと音がした。

枯れ葉を踏みつぶしたような感覚に、とっさに床を見降ろす。
そして、即座に凍りついた。
後を追うようにして、背後からリンの声があがった。

「テツくん! そう言えばテツくんの部屋にごきぶりが出たんだよ!
 ドア開きっぱなしで逃げてきちゃったから……その……気をつけてね」

……わさわさと蠢く二本の触覚が、つま先から見え隠れしていた。







第4話 act4 : Wed. Dec. 20th

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