自分の中の偏りやこだわり、「一言もの申したい欲」から逃れられない

と、私が「個人的に」思っている話を書いてみます。ただの独り言です。

どういったシーンで「偏り」「こだわり」や、「もの申したい欲」が発露してしまうのか、それについて私はどう考えているのかを書いてみようと思いました。

〜〜〜

ひとつは、自分の理想とか現状に対する不満、あるいは主義主張に対する気持ちの持ちよう。

こうしたことを考えるのはとても大事ではあるんですが、そこに「正義」とか「義憤」とか「正しさ」、あるいは「あるべき論」などなど、そういう感情やら判断軸やらを強く持ち込んで意見を主張する人もいらっしゃいます。感情とか情熱こそが人間の原動力だし、そこはまあ自然な人の姿だと思います。私らは感情とか情熱を燃料にして前向きな活動をしたり、あるいは身内に愚痴って日々の鬱憤を晴らしたりしています。自分の感情や思いをどう処すのも自由です。

とはいえ、「正義」や「正しさ」なるものって本当に厄介で、暴走して手に負えないものの筆頭だと思うわけです。用法用量を間違えてブーストしがちだし、私には手に余る劇物のように見えます。

何が正しいのか考えること、何があるべき理想なのか考え続けること自体は現状を良くしていくためにも本当に必要なことだと思います。が、少し行き過ぎるとすぐにそれは過剰な攻撃性や傲慢さに変わってしまう。私は、その手の愚かしさを発露した自分を晒すことに、耐え難い嫌悪感があります。なんなら「正義」なるものに忌避感すら感じている節がある。そして、そういうことを声高に叫ぶ人が、その正義が主張されたテーマ or 議論の範疇において聡明・謙虚であった試しがない、とも思います。

いつでも無条件に成立する普遍的な「正義」や「べき論」などというものは、現実にはほとんど存在しないでしょう。任意の主張は誰かしらにとってのポジショントーク的側面を含んでいるでしょうし、いずれかの立場に立って主張を組んだことで相対的に扱いが軽くなる、あるいは考慮から外される別の立場がおそらく存在します。また、その主張が成立するためにどのような前提・背景があるのか、そしてどういった条件の下において成り立ち、あるいは成り立たないのか、そういうことは意識しておく必要があるでしょう。ただまあ、どう頑張ってもすべてを考慮することなど不可能ですから、自分の意見には何らかの穴があるはずだし、自分が確信する「正しさ」などその程度のものだ、という謙虚さは持っていたいものです。

あるべき姿、理想に向かって意見を述べることが間違っているわけじゃない。そうではなく、自分の考えも不完全であることを認めてもっとよりよいものを目指そうとするメンタルを持つことなんだろうと思います。
そう考えておくことで、自分には思いもよらなかったまったく別の正義や視点、そういうものを受け入れる余白が作れます。きっとその方が健全だし、自分自身もアップデートできる余地が大きく、好ましい。そのくらいが日常生活では健康的だし、実利的にも得だと思います。

「自分の正しさを他者に納得させる」ことが「議論を通して意見をより良くブラッシュアップさせること」より優先されてしまったら悲惨ですね。
意味のある反論や、まったく別の立場を提示されて「あいつは私の意見を疑った!こんなに "正しい" のに!こんなに私はみんなのことを考えて発言しているのにどうして!」…と捉えてしまうようだと危うい。正義とか善意の自覚によりかかりすぎると、反対意見や疑義に対して神経過敏になりやすい。たぶん、そこで適切なブレーキが踏めなかったら愚か者の仲間入りなんでしょう。
意固地になるのは自分の善意や熱意を「認めてほしい」という欲なのかもしれませんね。誰しも持っている当然の欲求なのに、その欲求のために愚か者になってしまう。本当に難儀なものです。

ここまで自分が「正義」に感じる厄介さのようなものを書いてきました。ただ、本当は「正義」を抱くことそのものが悪いわけではないとも思っています。理屈の上では、悪いのは正義が暴走した結果発露する攻撃性や傲慢さの方にあると考えているのですが、まあそれでも自分は「正義」というものが苦手です。
私が抱いている「正義」への忌避感は過去の痛々しい自分に対する反動による部分が大きいので、人より「正義」への忌避感は強く持っている傾向があるのかもしれません。

〜〜〜

もうひとつは、他人のごく短い発言やニュースを切り取って、それを「自分の」世界観や前提解釈に基づいて「勝手に」解釈・判断してなにか苦言を呈したくなってしまう、ある種の発作のような「もの申したい欲」の発散。

X (Twitter) のような SNS などで顕著ですね。何かしら一言申し上げたくなってしまうアレです。

そのコメントに様々な解釈余地があることに気づけないし、その発言者がどういうテンション・前提認識、あるいは精神状態でその言葉を発したかは(本当は)わかりようがないはずなのに、自分なりに解釈できた気になってポストする指を止められない。愚かだなあ、時間の無駄だなぁと自分ではわかってるのに、完全にはやめられなくて、つい発言してしまうことがある。もうこれは本能に近い部分に染み付いている性根なんじゃないか、と思います。

自分に損得ないはずの話題でも反応したくなってしまう場合があります。あれは一体どういう心理で言及したくなっちゃうんでしょうね。心理的な仕組みを理解したいし、仕組みを理解した上でなんならできる限りやめたい。

自分のいる業界や職種など、世の健全さのために「変な誤解を招くような情報を発信するんじゃねぇ!」みたいな意識で反応するケースもあろうかと思います。それはそれで必要なことです。自分ひとりが利益を得るために周囲のなにかを不当に下げるポジショントークを展開する人間、悪意を持ってミスリードを招く情報を発信する人間、心からの善意であらぬ方向に暴走する人間、こうした方は大勢いらっしゃるわけで・・・。

ただ、指摘したくなる自分の意見も、それが果たして自分のエゴじゃないと言い切れるかどうか?「正しい」と言えるのか?みたいなことを、画面から指を離した後で考えてしまうわけです。赤の他人と同居する140文字の世界では、そういう賢明さを発揮することが特に難しく感じます。

言外の前提となる世界観がそもそも違う可能性は大いにあるはずなのに、そこの可能性をすっ飛ばして、自分の価値観・世界観を暗黙の前提にして、勝手に140文字を解釈して、そして物申したくなってしまう発作を私らはやめられない。

物申す前に一度踏みとどまれる、あるいは間違っても訂正できる、そんな聡明さを私らは「他人には」つい期待しちゃうわけだけど、実際そうできることの方が珍しいわけですよね。そりゃ、他人事で冷静なときはいくらでもそれっぽいことが言えますわな。
そして、仕事では常に聡明な態度がとれるように見える人でも、ひとたび別の角度(プライベートの生活とか)を切り取れば同じ聡明さを発揮できるかはわからんわけで。

たいがいの人は、適度に他人事、適度に無関心でいられる話題なら聡明になれるはずだと思うわけです。自分にとって強いこだわりがある話題もしくは自己のアイデンティティに関わる話題、追い詰められた健康状態・精神状態にあるとき…などなど、いわゆる「条件が悪い」場合でも、いつでも同じように冷静に聡明に振る舞える人は世の中にどれほどいるのでしょうか。

本人のメンタル状態やトピックに依存せず、いつでも聡明・賢明な反応ができる人なんで実際いやしないだろうし、まあきっと私も愚か者の仲間なんでしょうね。

〜〜〜

こういった一種の「愚かさ」を、私は本当に忌避しています。過去の反動で必要以上に嫌っている部分が多々あることは自覚していますが、そういうキモくて愚かな自分はどうにも許せそうにないし、そういう愚かさを発揮してしまった他人に対してもやや非寛容な感情を自分は持ちがちです。

カーネギー先生だったか、「全て知れば、全て許せる」的なことを言っていたような気がします。思うに、この考え方こそが唯一の予防方法なんじゃないかなって思います。

自分の意見については「どれほど確信あろうが、それは的外れかもしれないし別の見方があるかもしれない」程度に捉えておいて、正しさの尺度で自分を支えようと思わないことが重要なのかな、と。

どうしても譲れないことであっても、それはある種のエゴあるいは価値観として自分がそう考えているだけかもしれません。たぶん、多くの場合、それは客観的もしくは絶対値的な「正しさ」を保証されるものにはなりえない。相手には相手なりの、自分には自分なりの「正しさ」があるわけで、大変主観的な物差しであることがほとんどでしょう。
(だからこそ「で、お前はどうしたいんだ」という意志表明や、「なぜそう思ったんだ」という Why 情報が大事であると言えるわけですが。仕事でもこの手のメンタルの大事さは散々言われますよね)

「価値観の相違」と「正義」「正しさ」を取り違えないことが重要なのではないか。世の中のほとんどの議題は、絶対的な「正しさ」が付けられない価値観の相違の問題でしょう(きっと)

自分の意見に変に自信を持たず、ましてや正義などと思わない。「確信」が芽生えたときこそ警戒する。そういう心持ちに尽きるんじゃねぇかな、という気がします。

知識とか、他人の裏事情とか背景とか、色々なことを知れば知るほど軽々しく「100%」とか「正しさ」なんて断言できない、そんな気がするのですよね。とてもそんなこと言えないよ、って気持ちになるのが自然なんじゃないかと思います。

ましてや SNS の与太話など、自分の人生にさしたる影響もないような話題で、賢明な振る舞い・考え方ができないはずはないんですけどね。不思議ですね。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?