自分の思う「大人になること」

0 or 100 ではなく、
白黒ではなく、
「曖昧さを受け入れられるようになること」

大人になっていくということは
あらゆる点で、グレーの中に自分の立ち位置を決めることだと思っている。

「絶対にこの法律は間違っている!廃案にすべきだ!」
→「反対60%くらいかな?修正が必要だ」

「この人は素晴らしい人だ!or酷いやつだ!」
→「100%完璧な人はいない、そう思うなら自分がいい面しか見てないだけ。人も社会も複雑で多角的。」

みたいな感じで、
考え方の解像度が上がっていくように思う。

時々、「あんた人生何周目?🤔」
って言いたくなる小学生がいるが、
あの子達も「まぁ人生そうゆうもんだよね〜」というような、
「白黒に振り切れない」で、全てを受け入れているような達観した発言をしている。
そういうところが"大人びて"見えるのかも。

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人生経験を積む中で、
「社会」というものや「自分自身」のについて知っていく。

その中で気づいていく。

・発言には責任がともなう。

・そもそも多くのことは「たった一つの正解」がある訳ではない。
だから自分の考えだけが正しいわけでもない。

・物事は「これが原因だ!」とうい1つのものがある訳ではなく、
様々な要因が複雑に絡み合っていて、白黒つけられるほどそうシンプルではない。

・そんな自信満々に言い切れるほど、自分はそんなに大したものではない。

・極端な思考は対立を生む。相反するものを排除することになる。
時間も体力も有限なのに、そんないちいち戦っていられない。

・全てのものは表裏がある。
世界には戦争や飢えや暴力や不平等が存在するのも事実だが、
優しい人や、子供や動物、美しいものが沢山あるのもまた事実。

・自分はまだまだ無知である。

・極右も地獄 極左も地獄


元来、私は謎の自信に満ち溢れていて、
思ったことを単刀直入に必要なことだけをずばっという方だった。
「ぜったい」「すべき」というワードを多く使っていたと思う。

それが徐々に
「多分〜と思う」「知らんけど。」と曖昧に濁していくようになっていった。

また、
「全員そうだとういう訳ではない。特例もあるが、多くの場合は〜」
とか前置きを置いていくようにもなった。

これは責任逃れの「保険」でもあるが、
特例中の特例な事例を持ってきて"こういう人はどうすればいいんですか!!?"
というク○理論ぶつけてくる奴が絶対いるという経験を積んだからである。

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いわゆる歳を重ねると"丸くなる"というやつだろう。

いいところは、心の平安。他者への理解。
デメリットといえば、若い子独特のギラギラした強い想いや、
それによる行動力みたいなのがなくること?

そしてクッションを置いて、前置きを置き出すと
どうしても話が長くなる。クドイ。

子供の頃、朝礼での校長の話や、大人の昔話が長く退屈だったのは、
こういうところのせいなのかもしれない。


これからの課題は、
若い子捕まえて武勇伝を延々聞かせたり、説教臭い、マンスプレインングしないBABAであり続けることです(`・ω・´)❗️

雄弁より傾聴や〜〜

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