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そっち側の人間だった

最近、精神的に衰えていっているのと、人と繋がりだしたことで世界の広さが分かってきたのとで、自分の長所だと思っていたところを長所だと思えない(みんな私程度の力は持っているので自分は別に凸ってないと思う)状態になっていた。

でもさっき高齢者の方に席を譲って、お礼を言われなかった(反応が薄かった)のに何も思わなかったとき、「あ、私って誰かのために何かをしたときにお礼を言われなくても大丈夫なタイプの人間なんだな」と気づいた。
そこに目をつけている時点で大丈夫じゃないじゃんという議論もできるが、本当にお礼を言われないことに対する感情が無だった。「疲れてるんだろうな」とかそういう擁護もなく、「席を譲る」という行為が「席を譲る→相手からアクションをもらう」ではなく「席を譲る」だけで完結していた。これは信じてもらうしかない。

それで思ったのが、おそらく私は自分の思う倫理や道徳や正義に従って動いているので、お礼という報酬がいらないということだ。「感謝されたい」という動機ではなく、「自分の信条に従いたい」という動機で動いているため、報酬は「自分の信条を破らないで済む」ことになる。

それって私の特色だと思う。凸だろう。
善をなすときに相手からの見返りがいらないのだ。私は別のルールで動いているので。

こんな風に私が何気なくスルーしている物事が実は人によってはスルーできない事だったりすると思うので、「私には長所なんかないんじゃないか」とか思わずもっと手足をリラックスさせていていいよ(と自分に言ってあげたい)。
得意なことっていうのは何気なくこなせてしまっているものなのだ。

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