生きやすさの維持

書くことないな〜〜〜。

最近、社交不安がよくなってきている実感がある。
前は今ほど人と関わる機会を持てていなかった。最近は毎週のように休日に予定があるし、職場でお昼を人と一緒に食べに行ったりするし、人と話す分には泣きそうにならないし、毎日人とLINEをしてる。

社交不安はこうやってパッキリとは良くならずに、ジワジワ良くなるんだろうな。元に戻るかはわからないけど、近くはなっていくんだろう。

社交不安がよくなる中で、もう一つ私が話ができない理由が(前々から薄々気づいていたんだけど)見えてきた。
それは、話す内容がないということ。
声が出ないとか人が怖いとか話そうとすると泣いてしまうとか、そういうものを克服しても話すことがないと何も話せないよね。そして私は話すことがないよね。

それがなぜかというと、理解が浅いからだと思う。物事の解像度が低いというか、言語化せずにやり過ごしてしまっているというか、なんとかなるだろうと思って有耶無耶な理解のまま逃げている。楽をしようとしている。している。しているツケが今回ってきていて、何も話せなくなっている。
でもこの理解の浅さがなぜ起きているのかと言われると、わざとじゃないと言わざるを得ない。脳の性能が前と比べて著しく下がったから。深く考えることができなくなったし、集中力がなくなったし、発想力もなくなったから段取りとか不安材料潰しとかができなくなった。決して私が思考に対して怠惰だからではないと思う。何なら昔はストイックな方だったしな。
きっかけはなんだろうと考えた時に、薬は大きく変わってないから(薬が原因だったらわかりやすくていいなとは思うけど)違うだろうし、老化にしては早すぎるし、と思うと、カウンセリングかな…?と思う。

カウンセリングを始めてから、まあその間に薬で安定したりしたけど、ちょっとずつカチコチの自分が解けてきた気がする。これはいい意味でも悪い意味でもだ。自分に課す最低ラインが引き下げられて気持ち的には生きやすくなったが、風呂に毎日入ったり服を毎回洗ったりといった日常の清潔さは失われたし、強迫感が薄らいだので仕事でも前より腑抜けたことをしている。何の準備が必要か考えるという発想がなくなってしまったし、起こりうる危険が思い浮かばなくなってしまったし、作業工程を覚えていられなくなって作業中も流れがピンとこずぼーっとしている。
良くも悪くも緊張感がなくなったとも言うのかな。でも自分を責めることや焦燥感や「何か間違っているはず」「何か危険が起こるはず」といった恐怖感がなくなったことで本当に感情的には生きやすくなった。仕事はできなくなったから社会的には生きやすくなってないのかもしれない。

仕事が比較的できるのと、主観的に生きやすくなるのと、どっちが大事かな。私にとって。やっぱり生きやすさかもな。仕事の出来なさで悩むのは二次的な悩みに感じる。健康の前では社会的地位は投げ出される。マズローの五大欲求?だってそうだしさ。

でもそれはそれとして仕事はできるようにならなきゃいけないわけで。ただでさえ病気や障害持ちの社会的弱者なのだから、身を立てるために能力が必要だ。
私は今その能力をも失おうとしているわけで。昔はこの状況にそれはもう大層な危機感があったわけだけど、今はそれこそカウンセリングを進めてからそういう危機感が私を追い立てて追い詰めて強制的に何かに駆り立てることがなくなった。から、昔みたいに成長できないし前に進めない。と思っている節があるけど、それは「ブラック企業で働いていた頃のほうが強烈に働いていた」みたいなことだと思うので、私の本来の姿ってこっちの「前に進めない」人なんだろうなと思う。
本来の姿を受け入れつつ、宥めつつ、ちょっとずつ、前より遅いペースで当たり前なので、進んでいきたい。具体的には資格の勉強をしたい。

職場環境とか人間関係とか雇用条件とかを考えると今の状況は本当に恵まれているなと思うので、たしかに仕事の話は何もわからないから向いてないと思うけど、ここにしがみついていきたい。そのためには完璧にじゃなくていいけどそれなりに必要とされる人材にならなきゃいけないわけで、そのためには勉強して資格を取るのが分かりやすいし勉強しか能がなかった私にはやりやすいはずで。でも今はもう勉強ができなくなってしまったのはあるけど。

なんか私ってまだ現実と過去の区別がついてないんかな。今勉強ができなくなってしまったのを受け入れて、資格以外のソフトパワーの面で役立っていく道のほうがいいのかな。そっちも社交不安で道を塞がれているけど。

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