見出し画像

イイシラセ【『太陽の法』存在と時間】(2024/03/26)


 人間は、この地上に生まれて以来、あの燦々と光を投げかける太陽のもとに、さまざまの存在を見たり、生きとし生けるもの、ありとしあらゆるものを見てきました。そこに、ひとつの真理であるところの、普遍の法則があることを私たちは見抜かねばなりません。
 そして、その法則こそ、生々流転の法則なのです。この世に存在するものはなんでも、すなわち、人間であれ、動物であれ、植物であれ、鉱物であれ、微生物であれ、すべて、この生々流転の法則の支配下にあります。

『太陽の法』第1章太陽の昇る時 P23

「生々流転(しょうじょうるてん)の法則」から
変転するこの世のものと、変化の中にあって流転しない「なにか」の存在について解き明かされます。
 この節は六ページほどの短い文章のなかで、この世とあの世を貫く秘密のベースが説かれています。

別の言葉でいうならば、この三次元現象世界の存在は、すべて変転の時間を内包しているものだともいえます。すなわち、静止した存在はありえないのです。すべての存在は、変転を前提としてあることをゆるされているともいえます。

『太陽の法』第1章太陽の昇る時 P25

「存在は、変転の時間を内容しているのだ」という視点は驚きです。日常で時間をどのように感じるでしょうか? それは空間のように自分をつつみこむ世界の属性としてあり、自由に変更することが困難なものとして認識してはいないでしょうか。
ここでは「時間を内包している」と説明されます。時間に自分が包まれているのではなく、自分の中に時間が内包されているイメージを持つことができます。
私の印象ですが、時間はそれぞれの存在が固有の時間を持っていると理解できます。私の時間、あなたの時間、鳥の時間、魚の時間、そして地球の時間、太陽の時間のように、それぞれの存在別に時間はある。
地上では私たちは便宜的に地球の自転をサイクルとして生活をしていますしそれを「共通時間」としています。ただより本質的には時間は個別に存在している、ということでしょうか。
アインシュタインの相対性原理では、慣性系別に時間の速度が異なると説明されます。そのさらに延長にある世界観、時間観がここには記されているように思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?