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イイシラセ【『太陽の法』有限と無限】(2024/03/26)

人生は、六十年、七十年の有限なもので、死ねば何もかもがおわりだと思っている人。自分の目に見える部分だけがすべての世界で、五官を超えた世界などはまったく信じないといってはばからない人。こういう人は、結局、世界探求に出かけた亀のように、自分の足跡だけをたよりに、同じ小さな世界をぐるぐると堂々めぐりしているにすぎないのです。

『太陽の法』第1章太陽の昇る時 P31-32

有限と無限についての説明のために、亀と漁師の物語が紹介されています。
それを受けての上記の文章となります。
実験によって観察・確認できる事実のみが「確かである」というのは現代の風潮としてあると思います。これをここでは「自分の足跡だけをたよりに」と言われており、かつ「同じ小さな世界」を「ぐるぐると堂々めぐり」していると表記されます。
実験者たちはまじめで正直な人であろうとは思うのですが、実験結果以外を認めることができない、という残念さ(本人たちは事実に誠実であると信じていることでしょう)故に、もっと大きな世界が目の前にあるのに認めることができない、というある種残酷なお話です。

宇宙を人体にたとえるならば、三次元宇宙とは、はだかの肉体人間です。四次元宇宙とは、肉体をつつむ下着であり、五次元とは、下着の上のワイシャツ、六次元とは、ワイシャツの上のセーターです。七次元とはセーターの上にはおるスーツ、八次元とは、全身をおおうコート。そして、九次元とは、頭の上の帽子のようなものです。

『太陽の法』第1章太陽の昇る時 P33


https://photo-chips.com/?act=bukken&id=178

余談です。
なぜ九次元だけ帽子なのだろう? と初めて太陽の法を読んだときに不思議な感覚がありました。他の衣類は下の階層を包み込むのに、帽子だけちょっと違う感じがするな、と。
今の私の印象というか感想ですが、宇宙は多次元の蓮の花に比喩できるものなのかもしれないと感じます。花托部分が地上であり、九次元は花托と蓮全体(根やほかの花を含む)をつなぐネックの部分。多次元宇宙は重なる花びらの内側から外側の層。
こうしてみると九次元がほかの宇宙とつながっているというモデルと蓮の花とが重なって見えてきます。

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