卑弥呼=天照大御神を解いてみる

日本古代史が好きな人なら、宇佐神宮の比売大神は卑弥呼である、とか、天照大御神は卑弥呼である、というのを聞いたことがあるだろう。
古代において宇佐神宮の権威が高かったも。
これだけ聞くと、なんでやねん?だが、何故このようなことが言われるのか調べてみた。

八幡神

「宇佐家伝承 古伝が語る古代史 宇佐公康著」
には、宇佐氏は縄文時代から続く古い一族である、とある。

古事記(712年完成)、日本書紀(720年完成)に、神武天皇が神武東征の際、宇佐に宇佐国造の祖である宇沙都比古・宇沙都比売を訪ねた描写がある。
この頃には宇佐氏は記紀に記載される一族だった。

そんな宇佐氏が宇佐神宮の社家となるのは奈良時代になってから。
宇佐神宮の社家は辛島氏→大神氏→宇佐氏と移り変わっており、最初から宇佐氏が宇佐神宮の宮司をしていたのではない。

宇佐神宮も「宇佐」神宮とか「宇佐」八幡宮と呼ばれるようになったのは860年に石清水八幡宮に勧請された後で、それまでは八幡大神宮など「宇佐」無しで呼ばれていた。

宇佐神宮に八幡様として応神天皇が祀られるようになったのは、571年大和の大神比義が宇佐に八幡様が顕れたと言って宇佐に入り、宇佐に八幡様を祀ってから。
元々宇佐神宮で神を祀っていた辛島氏のところに、大神氏がやってきた。

なんで大和は宇佐神宮が欲しかったのだろう。
その理由が宇佐神宮で卑弥呼が祀られていたからだとしたら???

辛島氏は朝鮮半島(新羅)から渡ってきた秦氏で、初めから宇佐にいたのではなく、元は福岡県田川郡辺りにいた。

福岡県田川郡香春町に香春岳がある。
香春岳は鉱物がとれる山で渡来人がいた。
香春岳の一の岳、二の岳、三の岳には、709年にこの3柱の神が香春神社に移されるまで、それぞれ以下の新羅の神が祀られていた。
 一の岳 辛国息長大姫大目命
 二の岳 忍骨命
 三の岳 豊比売命
香春神社の社家は赤染家と敦賀家だが、辛島氏の宇佐神宮も元々この辺りにあり、辛島氏もこれらの神を祀っていたのではないかと思う。

それが八幡神を信仰するようなったのはなぜか。

妄想してみる。
渡来人の辛島氏が豊国辺りに土着する。
九州北部(さらに広くて西日本?)で争いが始まる。
長年争いは続いた。
辛島氏の卑弥呼が魏に使いを遣り、魏からたくさんの幡を貰い受ける。
卑弥呼は戦いで魏から貰った幡を掲げ、魏の権威を盾に争いを治める。
卑弥呼の死後、争いを治めた卑弥呼が幡と共に祀られる。
八幡信仰の始まりはこんな感じじゃなかろうか。

卑弥呼=瀬織津姫=多岐津姫

瀬織津姫のセオリツは韓国語の「ソウル」つまり今でいう「都」の意味、古代であれば「集落」だろうか、渡来人集落の神といった意味合いの神だ。

卑弥呼が日巫女もしくは姫巫女のような役職名だったのかは判然としないが、争いを治め、自らの集落だけでなく、邪馬台国連合をまとめた卑弥呼は
「連合国」の神、瀬織津姫として祀られた。

大祓詞の一部に

佐久那太理に落ち多岐つ。
速川の瀬に座す。
瀬織津比賣と云ふ神。

という文言がある。

宇佐神宮の二之御殿では「比売大神」=宗像三女神が祀られている。
瀬織津姫と同一神と見られているのが、宗像三女神の多岐津姫だ。
大祓詞の瀬織津比賣という単語のすぐ前に「多岐つ」という言葉が出てくる。
ここから多岐津姫が生まれたのかもしれない。

時代が下ったどこかの時点で瀬織津姫は多岐津姫に名前を変えられた。
瀬織津姫という名があまりに渡来人をイメージさせるからかもしれない。
そしていつしか、宇佐神宮では多岐津姫だけでなく宗像三女神が祀られるようになった。

これらのことから、宇佐神宮の二之御殿の「比売大神」は元々卑弥呼を祀っていたのではないかと推測する。

卑弥呼は天照大御神か

宇佐神宮で祀られている神は
一之御殿 八幡大神(応神天皇)
二之御殿 比売大神(多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命)
三之御殿 神功皇后(息長帯姫命)
である。

香春岳で祀られていた神は上にも書いた通り
一の岳 辛国息長大姫大目命(新羅の神)
二の岳 忍骨命(天照大御神の息子?)
三の岳 豊比売命(卑弥呼の後継者台与?)
である。

なんか、似てる。
眺めていると

八幡大神=忍骨命
比売大神=豊比売命
神功皇后(息長帯姫命)=辛国息長大姫大目命

のような図式が見えてくる。

妄想してみる。

三の岳は元々豊比売命ではなく卑弥呼を祀っていた。
その後、卑弥呼の後継者の台与が邪馬台国連合を平和に治めたので、台与(豊比売命)が祭神となる。

古代は宇佐でも香春岳の神を祀っていた。
宇佐では比売大神(卑弥呼)を祀り続けていたが、卑弥呼の権威が欲しい大和が宇佐に大神比義を遣わし、忍骨命を応神天皇とし、宇佐神宮を渡来人(辛島氏)から奪った。
古代に宇佐神宮の権威が高かったのは、卑弥呼の権威があったからだろう。

さらに妄想してみる。

記紀の編纂時、その頃はある程度の地位にある人達の中では、宇佐の比売大神が卑弥呼であることは知られたことだった。
記紀では国の一番偉い神を定める必要があった。
そこで宇佐の比売大神(卑弥呼)に天照大御神と名付け、その息子の名に忍骨命をもじった天忍穂耳尊という名を付け記紀に登場させた。

日本書紀では、卑弥呼=神功皇后(息長帯姫命)としようとしている。
が、むしろ逆で、卑弥呼を天照大御神にしてしまったので、実際の卑弥呼たる人物がいなくなってしまったので、辛国息長大姫大目命(新羅からの渡来人)から息長帯姫を作り出したのではないだろうか。
息長帯姫の元となった人物はいるだろう。
しかし彼女が本当に息長帯姫という名だったのかは定かではない。

参考文献

1.

にある、静岡理工科大学 名誉教授 矢田 浩氏の論文全般

2.日本にあった朝鮮王国 大和岩雄

3.出雲と蘇我王国 斎木雲州

4.宇佐家伝承 古伝が語る古代史 宇佐公康

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