【雑記】映画「セッション」感想




お疲れ様です!八海山大五郎Pです。
ニコニコもアイマスも全然関係ない記事なのですけれども。

今更ですが「セッション」という映画を観ました。
上映当時の話題作であり、
面白かったよ~という感想も多く聞きました。
いつか見たいな~と思ってたんだけど、
気付いたらこの映画2014年の作品らしく、
もう10年経ってたそうです。
どんだけボーっと生きてるんだ俺は。

すごい良い映画でテンションが上がってしまったので、
感想記事でも書こうかと思います。
が、僕の感想は割と思った事を詰め込もうとするため、
あまり読みやすい文章にはならないであろう事を
事前におことわりしておきます。

また、一応配慮は致しますが、
どうしても多少のネタバレを含むと思います。
未視聴の方がお読みの際には十分にお気をつけ下さい。




先にまとめる


とても簡単なあらすじ。

主人公のアンドリュー・ニーマンは、偉大なドラマーになりたくて国内最高峰の音楽学校に入学する。学友とは反りが合わず彼女も出来ず、シングルファザーの父に励まされながらもうだつの上がらない日々を送るが、自主練習している所に学院内最高の指導者であるテレンス・フレッチャーが現れる。
その場ではすぐに興味を無くして去った様に見えたフレッチャーだったが、後日ニーマンのクラスに現れ、彼の受け持つバンドの練習に招かれる。浮かれて参加するニーマンだが、フレッチャーのバンドへの指導はシビアというよりもはや壮絶なもので、ご多聞に漏れずニーマンも泣くまで彼の罵詈雑言を受ける。
辛酸を舐めたニーマンだったが、その悔しさを放っては置かず、ドラム・スティックを指の血で染めながら練習する事を選ぶ。
さて、やや経ってバンドはコンテストに出場することになるが…?

つまり、「めっちゃすごいドラマーになりたい人」と「鬼みたいな指導者」が角突き合わせる話、という感じのお話。

感想を一言で表すと、「男の世界を言外に描いた作品」という印象でした。これ以降はこの感想を掘り下げて肉付けしていく感じの文章になると思います。




「主役は二人」と完全に割り切った構成


…というのもこの映画、登場人物こそそれなりに出てくるものの、物語の構成要素として捉えた時に、ニーマンとフレッチャー以外のキャラクターには本当にオプションとして程度の機能しか与えられていない、と言っていいと思います。
この話で描きたいもの、それを描く役割は、ほぼその二人に集約されている。
例えばめっちゃ人のいい友人キャラが出てきて励ましてくれたり、フレッチャーがなぜ鬼みたいな指導者になったかを掘り下げてくる様な事情通もいません。そもそもニーマンと周辺の人物との関係は希薄です。

むしろそういった「しがらみ」を何もかも乗り越えて音楽に没頭していくという点に於いて、二人は対立している様に見えて、実は利害が一致しているのです。というか、していくのです。


二人の共通点


二人は立場や経験値、アプローチこそ異なりますが、
根っこの部分で共通点があります。
「音楽に魂を売っていること」「不器用であること」という点です。

フレッチャーはむしろわかりやすい。
おそらく随分前から魂を売っていて、あとは手に入れた処世のツール―――それこそ指導者としての立場だとか人心を掌握する言論術だとかを駆使して、自身の思い描く理想の音楽を追及しています。
またその過程に存在するあらゆる障害を逐一排除します…例えばヘタクソなプレイヤー、煩わしい体制側の言い分など、利用出来る部分は利用するけど、それ以上の「無駄な」感情移入は人間相手でもしません。
指導中の罵詈雑言は、割と心からの悪態である事でしょう。
ただ流石にカドが立ち、「行き過ぎた指導」からある因果応報を受ける羽目になり、それがニーマンとの因縁に一役買う事になります。

ニーマンは、或いは物語の初めの方では、音楽は好きにしてもまだ魂を売ってはいなかったかもしれません。
しかしフレッチャーに上げて落されを繰り返す内に、ニーマンの内に秘めた野心と負けん気を燃料にどんどんドラムにのめり込んでいき、ようやく手に入れた「かつて欲しかったはずのもの」も「音楽の邪魔になるから」と切り捨てる様になります。
親戚と集まれば、彼らが真っ当な大学でそこそこチャラくも成功街道をひた走る自慢話を聞かされたりして、焦りとフラストレーションはたまる一方です。(余談ですが、この時卑屈になったりせず、むしろひたすら親戚に食ってかかるニーマンを見て、僕は彼が大好きになりました。超空気悪かったもん。
自我を確立しようとすればするほど、音楽の事だけを考える様になっていくのです。

物語の中盤から終盤にかけてニーマンは大きな挫折を味わうのですが、その時に自室のドラムを片付けるシーンと、幼少期の自分がドラムを叩いて父に褒められる動画を見て涙を流すシーン、弁護士の「フレッチャーの指導は非人道的なものではなかったか?」という質問に対して意外にもフォローを入れるシーンなど、個人的には非常に好きなシーンが多かったです。

またそれらのシーンを見る事で、ニーマンが「悔しさをバネにした原動力」だけで頑張っていた訳ではなかった事、すなわち彼の音楽への執着や憧憬と、なんだかんだ言いながら鬼指導をするフレッチャーに対する理解を示している事がわかります。

その後たまたま通りかかったジャズバーにて、これまた偶然にもゲストとして招かれていたフレッチャーがピアノを弾きながらスウィングする姿を見て ニーマンが微笑むシーンがあるのですが、ニーマンはこういったフレッチャーの穏やかな素の姿を何度か見かけて知っていて(あるいは『信じていて』)、それについては最後まで特に疑っていない様に見えます。

二人は結局、思い描く自分の理想が音楽にある事、その為にそこに向かってひたすら突っ走るしかやり方を知らなかった点に於いては共通していて、にしても非人道的な領域に入ってまでそれをやっちゃうフレッチャーに対して、ニーマンは「食らい付いていく」形で同じ道を歩む事になります。


ニーマンが主人公である理由


以下かなり重要なネタバレを含みます。
未視聴の方はお気をつけ下さい。

さて、そうしてクライマックスが迫ると、詳細は省きますがフレッチャーが本当の意味でニーマンを裏切り、突き放す事になります。

ステージ上でプライドをへし折られ希望を踏みにじられ醜態をも晒させられたニーマンは退場し、泣きながらも彼を暖かく抱擁してくれた父に「帰ろう」と言われます。このシーンは実に象徴的でした。

そこから迎えるクライマックスでは、今までフレッチャーに翻弄され続けたニーマンが、逆にフレッチャーをパフォーマンスを以て翻弄する事になります。
しかし二者間には大きな違いがあります。フレッチャーは悪意をもって――つまり自身の目標にそぐわない障害物を排する過程でニーマンを翻弄しましたが、クライマックスシーンのニーマンはフレッチャーに対して抱く「クソッタレが」の感情は抱きながらも、同時に音楽家として敬意を払い信頼もしていて、ただいい音楽をするためだけに、最愛の父すら含めて他の全てを一旦置いておき、その為にフレッチャー含めたバンドに協力を仰ぎます。「合図するから合わせろ」と。そしてその責任を果たすだけの能力を彼が劇中で身に着けていることを我々は見て知っています。

そう、この瞬間、作中で彼だけがフレッチャーと同位相に立つのです。これがニーマンが主人公たる理由です。
指導者と生徒ではなく、親子や友人、師弟でもありません。
ただ同じステージ上の運命共同体として、散々な悪意に晒されたニーマン側からフレッチャーへと信頼を呼びかけ、またフレッチャーからの苛烈な信頼に応え切るのです。いいから任せろやりきってやるから、と言わんばかり。

作中、最初のシーンから終盤に至るまで、フレッチャーに何度も何度も「もっとテンポを上げろ」と怒鳴られたニーマンですが、ラストシーンでも同様に要求されます。テンポを上げていくニーマンの演奏を見て頷き、一気に集中した表情になるフレッチャー。
誰にも満たされる事のなかった要求に完全に応える相手にとうとう出会えたフレッチャーは、歓喜の表情でバンドを指揮するのです。

物語は大団円を迎えるでもなく、そのステージを見た人々の評価や反応を確かめる間もなく幕を閉じます。これはつまり、二人が理想とする音楽に辿り着いた時点で、もう語る事はなくなったという事なんじゃないかなと思います。それ以外は「しがらみ」に過ぎないのです。

ニーマンが親戚と食事をするシーンで、親戚に偉大な音楽家の名前を上げた時、親戚が「そいつはロクに金も稼げないまま早世し、社会的にはクズだっただろ?」みたいな事を言うシーンがあるのですが、ニーマンの目指す偉大な音楽家の条件には、そういった付随物はあまり関係ないのでしょう。
最高のパフォーマンスをもって最高のステージを作り上げた時点で、ニーマンは偉大なドラマーに一歩近づけたのかもしれません。


「男の世界」とは


さて、冒頭に述べた表現ですが、では「男の世界」というのはなんだったのか?という事について。
これは別に、いや別にどう見られても構わないのですが、自己陶酔的なニュアンスを含んだり、あるいは印象を美化したい修飾でもありません。
言うなればこういう事だな、という形なのです。

以下完全に持論なのですが。

男というのはそもそもどういう生き物なのか?というのを考えた時、まずは始祖の形を捉える必要があると僕は考えます。
というわけで石器時代…狩猟民族の頃まで遡ってみると、男の役割はつまり「死を厭わずマンモスを倒す事」にあります。
農耕の概念がない時代、フィジカルに於いて女性よりも優れやすい傾向があるという理由だけでも、男性が肉を調達する役割になるのは必然だったのでしょう。

とはいえマンモスを倒すというのは正気の沙汰ではありません。ないけど、倒せないと明日を迎える事は叶いません。
なので男という種族は、種の存続のためにも頭のタガを外す必要があったはずです。これは適応の一貫と言えるでしょう。
彼らはあのクソデカ最強象さんに立ち向かう為に、遺伝子レベルでアホになる必要があったんだと思うのです。
その名残が現代においても男性には根強く残っていると僕は考えています。すなわち、「目的遂行の為には死をも顧みないほど全身全霊を傾けることが出来ちゃう回路」が男の子にはあるのではないか、という事。

一方、女性はその辺もっとドライでクールになりやすい傾向があると思います。
自身の死は種の断絶に直結してしまう訳ですから、命や生活が掛かってるとなると、それをかなぐり捨ててまで何かに取り組む理由にはなり得ません。
旦那が死んだら別の旦那を見つけないと肉が食えなくて死ぬかもしれないし、一つでも多くの木の実の配分を取る為には、愛だのマナーだの食えないものの優先順位はなんなら下げるべきです。
総じて女性の方が社会的動物としてはよく出来た回路を持ち合わせていて、そういう意味では優秀である傾向が強いと思います。
一言で言うと、したたかなのではないかと。

反面、種の存続の為に備えつけられた本能、恋や愛と言った情動のために身を滅ぼす事もあり得る事でしょう。
存続させなければならない事と根絶させてはならない事、というジレンマを根源的に抱えている面があるのかもしれません。肉体的にも精神的にも。

で、この価値観でもって「男の世界」と表現するというのはどういう事かというと、つまりニーマンとフレッチャーの二人が紆余曲折を経て、他の全てを顧みずに「理想の音楽」というマンモスに立ち向かう話に最終的になったんじゃないかな、と。

サイコかってくらいに人を人と思わなくなってでも優秀な生徒を産み出さんとしたフレッチャーと、社会からはみ出してでもそれに食い下がったニーマンと。
あらゆる物をかなぐり捨ててでもそれぞれの夢を全身全霊で追いかけた彼らは、誰も付いてこなくても、他の誰からも引き止められていても、頑として道を譲る事を最終的にはしませんでした。
そんな二人だからこそようやく最後のセッションに辿り着くことが出来た、という話だったんだな、と僕は思いました。
そうしてマンモスを倒した時点で幕引きになったという事なんじゃないかな、みたいに思う訳です。


総評


と、いう感じでした。
全体を通して…特に脚本に於いて引き算な感じの映画だったなーと思います。あまり余分な遊びのない構成だった。
罵詈雑言の中にフレッチャーのウィットが見える感じもいいし、ラストシーンでニーマンの叩くドラムセットのシンバルが傾いてしまったのを直すシーンとか、言外かつ細かく胸を打ちながらも、キャラ造形の深まる演出が見事でした。
上記に書いた様な事も実際は僕の妄言に過ぎないので実際は全然違ったのかもしれません、それこそ作中どこにもこんな事書いてないし。

プロットを追うだけならサクセスストーリーに見えなくもないのですが、その辺に本質は置かれてない様な気もしてのこの記事、という感じです。
むしろフレッチャーからすれば、最後の「自分の指揮に完璧にニーマンが追い付く」シーンあたりで、長年の孤独が報われた様に見えます。
彼こそサクセスしたのかもしれません。

そう言う意味では、プロットについては見る人によって極端に感じ方が変わるだろうな~という感じもします、けれども。
ラストシーンの「音楽のステージ上の高揚感」の表現は史上稀に見るくらい成功していて、その点については評価がブレにくい、文句のつけようがない部分だと思います。
その評価のブレにくい部分の出来が良すぎてそれだけでもここまで売れまくった、と言っても過言ではないかもしれません。

最初から最後まで一貫して何も譲ろうとしなかった二人がとてもかっこいい映画でした。

今更僕が薦めるまでもないのですが、とにかく見てよかったです。

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