男とか女とか
近年「男女平等」が叫ばれ,世間には非常に多くの意見が出されている.女性目線での多様な視点を作るとして,様々な会社では女性の社会進出を推進し,大学も女子枠なるものを作っている.今後もこの風潮は続いていくと思われる.本記事では,筆者が昨今の「男女平等」について思うことを記していきたい.
1つ言っておくと,筆者は女だ.ここ最近,体は男だけど心は女だから,自分は女です!という輩がいるが,筆者は生まれたときから歴とした女性だ.それを踏まえて記していきたい.
「人は平等ではない。生まれつき足の速い者、美しい者、親が貧しい者、病弱な身体を持つ者、生まれも育ちも才能も、人間は皆違っておるのだ。そう、人は差別されるためにある。だからこそ人は争い、競い合い、そこに進歩が生まれる。不平等は悪ではない。平等こそが悪なのだ!!」
これは,アニメ「コードギアス 反逆のルルーシュ」に出てくるキャラクター,皇帝シャルルの言葉だ.そう,人は皆違うのだ.その違う要因として,足の速さ,顔の造形,親の貧富といったものがある.努力・金銭により改善されるものもあるが,それら全てに改善できる限界点は存在し,基本的に私達にはどうにもできないものだと思う.だからこそ,男と女という最も分かりやすく簡便な指標に対して差別が生まれるのは当たり前の話である.
そもそも男女平等という話は,どこから出てきたのだろうか.
内閣府男女共同参画局によれば,「昭和20年(1945年)6月26日,米国サンフランシスコで国際連合憲章が署名され,国際の平和及び安全を維持する こと,社会的・経済的発達を促進すること,人種,性,言語又は宗教にかかわらず,すべての個人の権利と基本的自由の尊重の助長奨励という国際連合の3つの目的が示された.」「翌21年(1946年)にロンドンで開催された第1回国連総会では,前米国大統領の妻であり,かつ国連代表であるエレノア・ルーズベルトが「全世界の女性」にあてた公開状を読み上げ,国内及び国際問題への女性の参加の奨励等を呼びかけた.」とされている.また,この時代から,日本においては日本国憲法が策定され,参政権が女性にも与えられた.
大正年代,性による差別は根強く,日本においては参政権が女性にはなかった.それが日本国憲法の策定と共に,参政権が女性にも与えられた.権利が無かったものが,いきなり与えられたのだ.私は,こういった出来事から,男女平等という話が出てきたのでは無いかと思う.
「平等」と「公平」,似ているようで違う言葉だ.よく「平等」と「公平」の違いを表すために使われるのが,野球場を壁越しに見ようとする少年達の絵だ.身長の違う人間が3人いて台(箱)を配る中で,「平等」に箱を1つずつ配ると,一番身長の小さい人間は結局観戦はできない.一方で「公平」に箱を配ると,全ての人間が観戦できるが,身長の一番高い人間は,箱を配られていない.
つまり,「平等」な補助とは,偏りや差別がなく,それぞれの特性や能力を考慮せず,全員に同じものを与えることを意味し,一方,「公平」な補助とは,特性や能力を考慮した上で補助の量を変え同等に扱うことを意味する.
「平等」にものを与えたところで,差は埋まらず,「公平」になることはない.「公平」にものを扱おうとすると,「平等」には補助を与えられない.つまり生まれながらに人間に差がある以上,「公平」と「平等」は同時には成り立たないのだ.
「男女平等」の活動では今まで男子優勢で不平等だったものに対して,女性にも「平等」に機会を与えるため,「公平」に女性に今までもより良い権利・機会を与えているのだ.
しかしながら,現状この男女平等の活動を巡っては,賛同の声も多い一方非常に多くの批判・不満が寄せられている.男女に「平等」な機会を与えるために「不平等」に女性が優遇されているのだから,不満が出るのは当然だ.
もっと突き詰めるとこれは,施策の性急さ,所謂「地雷」な女や,男女平等の活動で一方を擁護する過激な輩の話題への触れやすさと,一部の一定世代以上の固定観念は未だに抜けきっていないことが合わさった結果だと考える.
全ての一定世代以上の人たちが,男女差別意識を持っていると言っているのではない.しかし,確かに未だに固定観念をもと話す人は多くなく,それは確かに男女差別と言えるものであろう.一方で「能力重視」で「男女」の差別なく,「能力」で差別された結果,これは「男女」を理由とした差別だ!と声高に叫ぶ人達は多い.「地雷」・「過激派」そういった思い込みの激しい話がポンポンと出てくるのだから,未だに偏見を受ける事態が発生してしまうのだ.これでは男女観の全面的な刷新は行われず,ノロノロとしか変化は起きない.
そんな価値観の更新の遅れに対して,時の流れは無情で,海外諸国は日本は遅れていると言うから,慌てて本来「能力重視」で平等に機会が与えられていたはずの場所にも女性優位な施策を打ち出すから余計に不満が蓄積されたのではないだろうか.
おそらくこの問題は根深かく,今後もこのような流れは繰り返されていくのだろう.ただ思うのは男女平等,女性の意見を取り入れることを目的とした一部の施策は国民全体的な意識に対して些か性急であり,やりすぎな部分もあるのではということである.
私としては人間としてのそもそもの能力,そして努力して得た知識や経験,これらを1人の女性ではなく人間として評価されることを切に願うばかりだ.
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