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X-Pro1と非合理の合理性

我が家のジャンガリアンハムスター、エゴマ氏は昼も夜もほとんど寝て過ごして、給餌の気配を感じ取ったときか、おやつをねだるときだけのそのそと巣穴から這い出てくる。その姿を見て情けないやらなんやら、可愛らしいのだけれどだらしがないように見えて仕方がないのだけれど、しかし生命とは生存を第一としていたずらにエネルギーを消耗せず、また可能な限り蓄えておくべきなのだろう。生活が保証されたときに取れる究極の合理性とは、寝て過ごすことのように思える。

しかしわたしたちはそうしない。生きていて、生きてゆくことに徹底したりはしない。仕事があろうとなかろうと、1人であろうとなかろうと、わたしたちは常に何をするかを考えていて、それはただ単に生きるということに終始しない。なにも用事がないその日、朝目覚めて寝床から這い出ると、もう非合理は始まっている。

たとえば、X-Pro1というカメラがある。このカメラについてはそう多くは語らずとも、おそらく気になって調べておられるであろうことだろう。特に目をひくのはそのレンジファインダーライクなスタイル、左肩に光学ファインダー(OVF)を構えたフジフィルムの珍奇なXマウント初号機は、現在に至るまで三世代も続く、非合理性の塊のようなカメラである。

このカメラ、はっきり言ってOVFは必要ない。もちろんご存知の通り、EVFに切り替えられるのだ。実際、このOVFをオミットしたような形でよりコンパクトになったX-Eシリーズというものが今まで存続しており、撮影という行為に一切の合理性も、優位性も無い。さらに言えばこれはレンジファインダーですらなく、OVFのみでの厳密なピント合わせはライカ等のそれよりも不可能に近い。勘違いしてはいけない。これはレンジファインダーではなく写ルンですのような二眼式のカメラなのだ。

ではなぜOVFが実装されているのか。そんなことわたしが知るわけが無い。フジフィルムの誰かがかっこいいと思ったからこうなったのだろう。そしてそのためだけに素人にはまったくわけのわからない、高い技術を費やしているのだ。そしてこれは、まったくそれでいい。

このOVF、あらゆる手練手管で補助はしてくれるものの先に述べた通り厳密なピント合わせは不可能に近く、ほとんどのユーザーはEVFを使うか、もしくはOVFにこだわりたい一部の変わり者たちでさえAFレンズを利用していると思われる。ピント合わせという一点を取ればこのファインダーに順応することは困難かつ無意味であり、撮影の妨げにしかならない。だが、やはり先に述べたようにこれはまったくそれでよく、このファインダーに則った作法というものがあるのだ。

実のところなにも難しいことはない。ピント合わせがネックならば、しなければ良い。これは目測やその失敗を楽しむなんて粋なことでもなく、ただパンフォーカス撮影をすればいいだけなのだ。写ルンですのようなカメラなのだから、写ルンですのように使えばいい。

パンフォーカス撮影と聞いてピンとくる方がどれほどおられるかわからないが、すなわちある一定の距離以遠は全てピントがあったように見えるという撮り方になる。ここでその技法についてこんこんと解説することはしないが大した技法でもなく、調べればすぐに出てくるようなあまり重要視されない基礎の撮影技術になる。これがX-Pro1のOVFをMFレンズで現実的に活用する確実な方法だ。

素通しのファインダーを覗き、ブライトフレームで構図を決め、あとはシャッターを押せばいい。これが実に小気味よく、気楽で、それでいて単純な撮影を許さずおもしろい。無論、EVFでピントを合わせ、被写界深度を浅くとって背景をぼかした方がより情緒的な写真は作りやすいだろう。だが人はその合理性を求めてこのカメラを手に取っただろうか? おそらく違う。

大抵の者はOVFの扱いづらさに忘れてしまったであろうけれど、動機がこのカメラの見てくれであれ機能の珍奇さであれ、まず求めたのは表現ではない。体験なのだ。その非合理性にこそ美しさを感じ、美しさに合理的な判断をくだしたのだ。

だからこそ、非合理を合理的に扱う手法として、パンフォーカス撮影という手段をここに提示しておきたい。というか、意外なほどこの撮影手段を用いるユーザーが少ないように思えたので、一度は試してみて欲しい。間違いなく他では味わえない撮影体験がある。

このカメラはただ単に撮影したという結果そのものに終始しないのだ。わたしたちがただ単に生きないように。

ただ最後にひとつお伝えしておきたい。わたしは知らなかったのだけれど、X-Pro1はOVFでも背面のコマンドダイヤルを押し込んだら測距点をEVFで拡大表示してくれる。わたしは、本当に最近まで知らなかったのだけれども……。

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