冱つ

立て付けの悪い横開きのドアが二センチ程開けた所で引っ掛かって止まり、その隙間から今日もしゅんしゅんと音がしていた。ストーブの上に置かれた盥の水が去っていく音である。力を込めてドアを開けると大きな音が出てしまうが、中に居る彼はじっと背中を向けたまま筆を止めない。つかつか中に踏み入り、今度は何とか引っ掛けない様に戸を閉める。今日は筆が進んでいると見えたので、邪魔をしたくなかった。
「またストーブつけてる、先輩しかいないのに」
「コートは汚す訳にいかないから」
「描く必要の無い絵でしょう? 何処に出す訳でもなく…」
「描きたいから描く」
先輩は振り返らない。この間はまだ平坦だったカンバスの上の絵具がもう随分こちらに迫って来て、色彩は複雑に淡くなっていた。形象がやっと見えた。
「桜ですか、冬なのに」
「桜が咲く頃にはもう居ないから、今描くしかないんだ」
とんとんと筆を置き、淡々と言を返す。余りにも何時もの調子で、先輩はそういう事まで言ってのけてしまう。
「嫌な事しますね」
息が洩れる。
「仁藤は桜、嫌いだったのか」
先輩は存外落胆した様な反応を見せた。感情の見えるのは珍しかった。
「嫌いです。散らない桜なんて」
私は断言してやった。文字通り、続けそうになった言葉を切り落としたとも言っていい。未練がましい事を言っても良い気がして、然し取り返しの付かないのは怖かった。
「仁藤をそんなに怒らせるなんて」
「僕も大層な人間になったものだね」
先輩の微かな笑みは寂しかった。暫くしゅんしゅんという音に耳を澄ませる時間だけが在って、少し目を逸らしていた先輩が低い声で呟いた。
「君は美大を受けるのか」
「今の所は」
「そうか、なら受けるんだろう」
先輩が絵に目線を戻した時、その口元が少し張るのを認めた。この瞬間、私と先輩とが、もう二度と言葉を交わさないことが理解された。先輩の方が幾らも才がある。情熱もある。今迄の私を彼がどう思っていようと、これからの彼は私を恨むのだ。同時に例え何時かその恨みが解けるとして、その頃には私と彼とは再会出来ない程離れているに違いないのだ。
「出来た」
何時もの七割も絵具の盛り上がっていないカンバスの前から立ち上がり、先輩は言った。そして久し振りに、私の目を確りと見た。
「この絵、仁藤が継いで描いてくれ、如何したって構わない、冬にしようが夏にしようが黒く塗り潰そうが何だって構わない、ただ」
「君がやってくれ。それならいい」
其の台詞は重く、直ぐに地に落ちた。何時までも此処に置いて行かれる言葉になるのだろうと思われた。
先輩は筆を置いた。
「好きな絵は今の内に書いておくといい。デッサンと専攻別実技、学科だって重要だからな」
先輩は機敏にコートを着て、荷物を背負った。
「僕は大分未来を殺してしまった、まだティーンとやらなのにね」
先輩がドアを開け、一歩を踏み出した。
「風の噂を楽しみにしている」
ドアが閉まった。
私はずっと、瞬きせず、迷いの無い身体の動きを追っているしか無かった。いつも通りドアが引っ掛かり、引っ掛かりを乗り越えた勢いでバシリと音を立てて閉まった瞬間、涙が傾れた。それを拭うのも忘れ、私は筆を取り、筆洗機の中を何度も何度も掻き回し、丁寧に拭い、パレットの隅に残された白を取った。桜の上に狂った様に塗り重ねた。彼が何時も絵具を盛り上げる様に、何度も、何度も。早咲きの雪桜でさえ最早共に見る事は無いと知っていながら。

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