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人が死ぬことから考えること

介護の職に就いてからは割と長いですが、
今、特養で働くようになったのは3年目。

誰かの死が身近に感じることになったのは割と最近の話です。

わたしの身内は長生きで
身近に死を経験することは
ほとんどありませんでした。

なので、今、自分の目の前で
人が亡くなるという現場に携わり
お別れを経験するたびに
たくさんの感情が沸いてくる、
そんな経験をさせてもらっています。


昨日、わたしが中学生の時に
離婚し別々に暮らしていた父方の祖父が亡くなりました。

小学生の頃に会ったのを最後に
会うことのなかった祖父でした。

両親の離婚の理由が理由だけに
父方の人たちとは会うことを
避けて過ごしてきました。
父とも数年おきに少し連絡を取るほどです。

そんな久しぶりの父からの連絡は
「今日、じいちゃんが亡くなった」でした。
父はショックを受けているようでした。

わたしは遠い昔の記憶を辿ると
なんとなく思い出せるほどの祖父です。

あまり会うことのない祖父には
人見知りさえしていましたし、
出来れば会いたくない存在でした。

その程度の思い出しかない祖父です。

今は遠方に住んでいるのもありますが
そもそも縁を切った父方の親戚には
会うつもりはなく葬式にも行くつもりはありません。

連絡を受けてなんとなく悲しい思いをし
こんな祖父だったなと昔を思い出しました。

そんな祖父を思い出している日の深夜、
わたしは仕事で職場にいました。

ターミナルケアだった方が息を引き取り、
現場の介護職員さんとエンゼルケアに入ることになりました。

その方の思い出を同僚と話しながら
身体を拭いてあげます。

すごく痩せてるのに食べるのが大好きで
いつもごはんは残さず食べていたね。

いつも自分より元気のない利用者の手を握り
励まし合いながら過ごしてきた方でした。
その方より先に逝ってしまったね。

最期は大好きなごはんも身体が受け付けず
食べることを全力で拒否して…

みんな泣いて悲しむね〜。

そんな会話をしながらのエンゼルケア。

その方にもわたしたちの会話は
届いたでしょうか。

朝になり出勤してきた職員に
息を引き取ったことを伝えて
その方との思い出をまた振り返る。

このちょっとした時間にも
本当にたくさんの人に愛されてきたんだな。
と感じる。

愛される人だった。
出来ればもう少し頑張ってほしかった。
最後にまたご飯をたくさん食べてほしかった。

たくさんの人のいろんな思いを聞きました。

その方が亡くなって
悲しいのはもちろんですが、
施設で関わった人との別れは
いつもあたたかい気持ちにさせられます。

わたしは亡くなった方の最後の役割は
家族を繋ぐこと。
関わってきた人たちを
繋ぐことだと思っています。

家族、学生時代、職場、地域の人、
よく通ってたお店、習い事、、
どんな人たちと関わってきて
どんなストーリーがあったんだろうな、
きっといいエピソードがあるに違いないと
考えると心があたたかくなります。

けど、その日はなぜか特別でした。
その方の死にあたたかく優しい気持ちになっている自分と
離別してるとは言えわたしと血の繋がっている家族の死を聞いて
悲しくもなんとも思ってない無の自分。

わたしとは繋がりの薄かった祖父は
誰かに愛されていた人生だっただろうか。

少なくとも祖父の死で
父とわたしが連絡を取ることで
わたしが祖父や父を思い出した時間を
作れることはできたのかもしれない。

どんな人生のストーリーだったのかも
知らないまま終わってしまうのでしょう。

一つ前の記事でも書きましたが、
愛は時間説。

一緒に過ごした時間や、
その人のことを考えた時間。

その時間そのものが
その人を愛したと計れるのなら
わたしも、きっとわたしの祖父も
お互いにお互いのことを考える時間は
さほどなかったのかな。

そう思うとちょっと納得できました。

わたしが死ぬときは
今までの人生でかかわってきた人の
顔を思い浮かべながら
ああ、本当に幸せな人生だったと思って死にたい。

この世に残るわたしが大切にしてきた人たちが
わたしを思い出してくれたら幸せ。

そうゆう人生にしていきたいとこれまでに
お別れしてきた故人から学びました。

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