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人肉で飢えを凌いだ衝撃のサバイバル ウルグアイ空軍機571便遭難事故 解説

どうも、はちわれねこです。

今回は人肉で飢えを凌がなくてはならないほど衝撃的なサバイバルをすることになったウルグアイ空軍機571便遭難事故の解説をしていきます。

タイトル通りショッキングな内容になりますのでご注意ください。
よろしくお願いします。

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ウルグアイ空軍機571便遭難事故は1973年10月13日に乗客40名乗員5名を乗せてアンデス山脈に墜落した航空事故です。

乗客はステラ・マリス学園のラグビー選手団と家族、知人でチリのサンティアゴに試合へ向かうため、ウルグアイ空軍の双発ターボプロップ機フェアチャイルドFH-227Dに乗りました。

10月12日に首都モンテビデオにあるカラスコ国際空港を出発しましたが、悪天候だったためアルゼンチンのメンドーサにて一泊しました。

13日に飛行機の上昇可能高度上限が30000ftであったことと悪天候であったため、メンドーサからアンデス山脈を越えてサンティアゴまで飛行することは出来ませんでした。
なので、メンドーサからアンデス山脈にそって南下していき、山脈の切れ目であるプランソンを西に通過してクリコ(チリ中部にある都市)のすぐ南の地点で山脈を抜けてから山脈のチリ側を北上して行くことになりました。

その後、天候が回復したので、飛行機はメンドーサを出発してすぐに山脈の切れ目を通過しました。

パイロットはこの時サンティアゴの航空管制に現在位置がクリコであると伝えたましたが、実際の位置はクリコのそばではありませんでした。
パイロットは北上するためのコースが雲で覆われていて見えなかったことから、標準通過時間から位置を割り出していましたが、その時向かい風が強く機体の進行スピードが減速していたため本来の時間より遅かったのです。

そのため、山脈の西側に十分に到達していないうちに北上してしまい、機体はセレール峰に衝突してしまいます。
この峰は人里はなれた場所にあり、チリとアルゼンチンの国境にまたがる高度4,200メートルの地点でした。

衝突により右翼が吹き飛び垂直尾翼にぶつかり破損した上に機体後部に穴が空きました。
さらに、別の峰に衝突したことで左翼も破損してしまい、機体は胴体のみになり、その後飛んできたプロペラによりズタズタに裂かれ墜落、崖を滑落していき雪に埋まったことでようやく止まりました。

この時、荷物を乗せた尾部は胴体から分離して別の場所へ滑落、さらに乗員2名と乗客3名が外に放り出され、9名が即死、これが原因の負傷により3名が死亡しました。
この時点で死者12名と行方不明者5名、生存者28名でした。

極寒の高山に唐突に放り出された28名は当然防寒着などの装備は無く、雪眼炎(紫外線によって起こる表層角膜炎)防止のためのサングラスもありませんでした。
そこで、生存者の一人であるアドルフォ・フィト・ストラウチ(24)は操舵室のサンバイザーを利用してサングラスを作り、目を保護しました。また、墜落時に席から放り出されたのが原因で多くの人が足を負傷しましたが、これらは乗っていた2名の医大生によって応急処置されました。

生存者たちは数枚の板チョコ、スナック菓子と数本のワインと少ないが食料を持っていたため、数日間食料が尽きないように分配しました。

生存者は救助を求めるため機体にあった無線機を使おうとしましたが、バッテリーが墜落時に分離した尾部にあったことで使用出来ないことがわかりました。

15日にアドルフォは空になったワインボトルを利用して水を溜める実験を始めました。生存者の一人であるフェルナンド・ナンド・パラードが意識を取り戻し、瀕死の状態にあった妹スサーナの看病を始めました。
生存者たちは正午以降に上空に航空機が3機通過するのが見えました。そのうちの1機が残骸付近を通過して翼を降ったことで、生存者たちは自身たちの存在に気づいてもらえたと喜び信じました。
午後になりラグビー部キャプテンであるマルセロ・ペレスは支給された食料の一部が何者かに食べられているのを発見しました。

16日に重症を負ってしまったラファエル・エチャバーレンのためにロベルト・カネッサがハンモックを作ってあげました。
アドルフォはシートのクッションを足に取り付けることで、かんじきのように雪上を歩けることを発見しました。

17日にカルロス・パエスとヌマ・トゥルカッティ、ロベルト、アドルフォの4人が分離した尾部を探すために墜落地点を出ましたが、何も発見できずに終わってしいました。

21日に瀕死の状態であったスサーナが亡くなってしまう。
死亡者13名 行方不明5名 生存者27名 

22日になると食料が尽きました。高山で雪が深いために食べられる植物も動物もいないことから食糧確保が不可能であり機内で議論が交わされました。
そして、ロベルトが遺体を食べる、つまり人肉食に手を出そうと提案しました。
しかし、遺体は彼らの家族や友人だったので何人かの生存者が拒みましたが、ロベルトは主導権を握ることでコレを決定します。
藁が入ってはいなかと座席を切り裂いたりと様々な方法で食料を探したが無かったための苦渋の決断でした。

23日にウルグアイ、チリ、アルゼンチンの3ヶ国から成る捜索が打ち切られたことをロイ・アルレーが機内にあったトランジスタラジオで捜索が中止されたというニュースを聞きました。
捜索は13日からやっていましたが、墜落機の外装は白かったことで積雪に混じり、空からの発見は非常に困難を極めたため断念されたのです。

23日に数名の少年たちが山頂に登る救助を要請することが生存のための手段であると主張しました。
副パイロットの機体がクリコを通過していたという話に、生存者たちは現在地がチリの農村部から西へわずか数マイルの地点であると仮定しました。

少年たちの中でも健康状態のよかったヌマとダニエル・マスポンス、グスターボ・セルビーノの3人が、雪の上に残る滑落跡を辿って山頂を目指すことになりました。

24日に3人が機体の尾部を探すために山を登っていると翼の破片と墜落時に放り出された行方不明者5名の遺体を発見。
しかし、尾部は発見できず、極寒の山を夜通しで歩くのは危険と判断して山頂にて一泊することにしました。
死亡者18名 生存者27名

29日に雪崩が発生して機内に雪が入り込み生存者を飲み込み、これが原因で8名が死亡し、機体が数フィート埋まってしまったため狭い機体の中に3日間閉じ込められましたが生き延びました。
死亡者26名 生存者19名

11月5日になりフェルナンドとロベルトは救助を求めるための遠征の同行者に誰が相応しいかテストをすることにしました。
このテストでカルロス・パエスとロイ・アルレー、アントニオ・ティンティン ・ビシンティンの3人が2日間山の下側に遠征へ出ました。
そして、彼らは機体のドアとアルミニウム容器2個と1/3残ったコーヒーを見つけました。
このテストにより同行者はアントニオに決まりました。

15日に遠征隊は出発しようと試みたが、悪天候により中止しました。また、アルトゥーロ・ノゲイラが足の負傷が原因で死亡してしまいました。
死亡者27名 生存者18名

17日には数回の遠征挑戦をおこないフェルナンドとロベルト、アントニオの3人が最終的なメンバーとなり、ロベルトの提案により尾部を探すために山脈の東へ向かうことにしました。

18日は北西した3人が機体尾部の発見に成功しました。また、スーツケースが数個転がっており中には煙草と残飯、衣服、ボール箱が入っていました。
さらに、アントニオがポールに巻き付けられた断熱材を発見しました。
尾部の内部を探索するとバッテリーを発見しました。3人はそこで一泊すること。
機体ではラファエル・エチャバーレンが死亡しました。
死亡者28名 生存者17名

19日になり3人はバッテリーを運ぼうとしましたが、重く運べなかったため無線機を持ってくることに決めて一度機体へ戻りました。
この時に、スーツケースの中身を仲間に報告しました。

24日にアントニオとロベルト、ロイ、フェルナンドの4人がが機体から外した無線機を持ち、一時間半かけて尾部へ向かい、到着するとロイが無線機の修理に取りかかりました。

26日には持ってきた食料が尽きてしまったのでフェルナンドとアントニオが機体へ戻り、ロイとロベルトは無線機の修理を続けました。

28日に機体へ戻った二人が食料を持って尾部へ帰ってきました。
機体にいた生存者たちはからトランジスタラジオからウルグアイ空軍がC-47(スカイトレインの愛称で知られる輸送機)が捜索を再開したと知らされました。

29日に無線機の修理が不可能であると判断して一行は機体へ戻りました。後に、無線機はバッテリー駆動ではなく機体のエンジンが発する電力から動いていたことが判明しました。

生存者たちは生存するためには西に向かうことが唯一の方法だと思っていので、数日間極寒の夜を乗り切るために寝袋を作ることが提案されました。
この寝袋は尾部から回収された断熱材を使用し作ることで凍死のリスクを下げようと考えました。

12月11日に生存者たちは集めたスーツケースを使い空から発見されやすいように大きな十字を書きました。 
アルフレド・パンチョ・デルガドの親友であったヌマが死亡してしまいました。
死亡者29名 生存者16名

12日になると完成した寝袋を持ちチリに向かう谷を見つけるため、ロベルト、フェルナンド、アントニオが遠征へ出発しました。

13日にロベルトが進行中に見た渓谷は道路なのではと思いましたが、この時は同行したメンバーには言いませんでした。
三人は山を登り、午後になる前に睡眠を取るために大きな岩の前に行きました。その時にロベルトは渓谷の話をしましたが、フェルナンドと意見が割れてしまい議論しましたが、この日は結論が出ないまま眠りにつきました。

一方機体では食料が尽きかけていたので、グスターボとアドルフォは死体を探しに出掛けました。1体発見することが出来ましたが、それを運べるほどの体力は二人には残っていませんでした。

14日にロベルトは渓谷を観察するために宿泊地点に留まり、フェルナンドとアントニオは山頂へ向かい登りました。
山頂に着いた二人の眼前に広がっていたのは遠くまで広がる山脈でした。これにより、山脈を越えて救助を求めることが不可能であることを知ります。

アントニオは二人に自身の食料を渡し機体へ戻りました。残った二人はさらに遠征を続けることにして、その日は動かずその場で眠りました。

15日にアントニオが機体へ到着して残りの二人は遠征を続けていることを報告しました。
そして、雪上に書いたスーツケースの十字を捜索していたC-47が発見したことをラジオで知りました。

しかし、17日にはその十字は気象学者が融雪量測定のためにマーカーで描いたものであるとラジオで公表されたことに驚愕しました。

一方、遠征していた二人は山の麓にたどり着き、谷へ進んでいました。
二人は近くの小川にコケなどの植物が生えているのを発見して、ロベルトは生えていたハーブを食べました。

18日に二人はようやく雪道ではない植物の生えた地帯へたどり着きました。

19日には牛の群れを見つけ、さらにスープ缶と蹄鉄を発見したことで文明圏が近いことを悟り、救助されることを確信しました。

20日になり二人は背負ったリュックから不要なものを捨てながら歩き続けていましたが、昨日以降文明の兆しは見つけられていませんでした。
その日の休憩場所を決めて、薪を集めていたロベルトが川の向こうに馬に跨がった男性らしき姿を見つけ、フェルナンドに大声で伝えました。
しかし、フェルナンドは発見できずロベルトの妄想ではないかと思いましたが、川岸の向こうに馬に跨がった男性が3人いるのを発見しました。

二人は川岸へ駆け寄り、身振り手振りで助けを求めていることを示しました。男性たちは「明日」と叫びました。二人はこれに歓喜してこの日は眠りにつきました。

21日に昨日の馬に跨がっていた男性の一人であるセルヒオ・カタランが川岸にやってきて、二人に向けて紙と鉛筆を結びつけた石を投げてきました。
そこには「そこに行くよう人間を送った」とか書かれており、フェルナンドは自身がウルグアイ人であること、飛行機が墜落して墜落地点に負傷者がいて助けてほしいこと、空腹であること、体力がなくもう動けないことなどを書いて投げ返しました。

セルヒオは馬を走らせ二人の元へ駆けつけました。そして、空腹を訴える二人に小屋と食事を与えました。

22日から23日かけて生存者たちが救出されました。
遭難日数72日目にして彼らは山を降りることが出来ました。
そして、サンティアゴの病院へ収容され、負傷や栄養失調などの治療を受けました。

救助された生存者たちは当初機内にあったチーズなどを食べて生き延びたと説明していましたが、後に人肉食に手を染めたことを話そうと考えていました。

しかし、26日になって救助隊に同行していた山岳ガイドが機内にて切り分けられ保存されていた遺体を発見してしまい、サンティアゴの新聞の一面を飾ってしまうことになってしまいました。

その後、生存者たちはモンテビデオに到着し、ステラ・マリス大学で記者会見を開催して72日間の遭難について説明しました。

救助隊員は事故現場から800メートルほど離れた地点に遺体を埋め、石を積み重ねて中心に鉄製の十字架を建てました。
機内に残った遺体の残骸は野次馬などに荒らされないよう焼却されました。

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人肉を食べてまでも生き延びなければならない状況に陥ってしまうなんて考えたくもありませんよね。

おそらく、この記事を読んだ方の中には「自分は死んでも人肉は食べない」と思う方もいると思います。
食べたことに非難する方もいるかと思います。
私も人肉は口にしたくありませんし。

しかし、これらを思えるのは私たちが外野にいるからなんですよね。

仮に、この事故のように突然何もない所に放り出されて、極限の空腹状態になったときに生きるために食べないでいられるかと考えるときっと難しいことだとも思います。
極度の空腹は人間の思考を鈍らせますし。

最後まで読んでいただきありがとうございました。
また、次回お会いできたら幸いです。





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