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一日一善って難しい

こんばんは、八坂です。

コーヒー豆を切らしてから、買いに行かなきゃと思っては買い忘れるのを数日間繰り返していました。ようやく買えた…。
数ヶ月前にKALDIで豆を買った時、コーヒージャーニーパスポートというものをいただきました。違う種類の豆を買う度に判子が貰える、言ってしまえばポイントカードみたいなものです。
デザインが可愛いしオトクだし、集めてみよう〜と気軽に思ったものの、豆、何十種類もあるんですよね。中にはかなりお高いものも…。いいように乗せられてしまった感が無きにしも非ずです。

そんなことはよくて、今日書きたかったことは別にあります。日々やんわりと、一日一善を心がけているという話です。

”やらない善よりやる偽善”って言葉が割と好きで、出来そうなことを見つけたら「もしかしてお節介…?」と思っても極力やるようにしています。誰かがミジンコ1匹分くらい得するし、何より自分がスッキリします。

ただ、相当意識高く活動的でいないと中々”善”をするタイミングって意外となかったりします。
電車で高齢の方に席を譲るという心温まる話も、まず自分が座っていて、かつ他の席は埋まっていて、さらにその高齢の方が自分の近くに来る、なんて条件が揃っていないと実現不可能です。
本格的に一日一善をしている人は、その人が素晴らしいって以上に運に恵まれている人だなあと思ってしまう程です。あくまで個人的な感想です。

ちょっと話が変わりますが、今日、帰り道に落ちていた空き缶を拾いました。すごく中身をぶちまけて道路の真ん中に落ちていました。空き缶を拾い、残っていた中身を排水溝に捨て、近くの自販機の横の缶入れに持っていきました。一善と言っていいのかな…?私と道路がスッキリしたのでよしとしてください。
ただ、缶を持っている私を、すれ違う人が皆「何あの人…缶落として道路に中身ぶちまけたの…?」って感じの目で見るんですね。
わからなくもない!もし盛大に零れた跡があって、缶をつまんで持って歩いている大学生がいたらちょっと白い目で見てしまうかもしれない!でも違うんだ!!

気づいた上で見過ごすのは自分が嫌なのでしませんが、いい事(少なくとも悪くない事)をしているはずなのに白い目で見られるのはちょっと複雑な気持ちになります。
もしこれを読んでくださっている方がいたら、缶をつまんで持っている人を見かけた時にはこんなこと言ってる奴がいたなあと思い出して、暖かい目で見てあげてください。

そんなわけで、一日一善って見つけるのもするのも結構難しいですって話でした。

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