声カッター

 いわゆる、あれは何だったんだろう系の体験談である。

 数年前の、とある日曜日と月曜日の境目の深夜のことだった。僕は自分の部屋でうだうだと夜更かしをしていた。
 つけっぱなしのテレビでは、もう何分もCMが続いていた。
 何かこう、深夜らしい良い感じの番組は他にないものかとリモコンを手にした矢先、CMが明け、真っ白な画面にぽつんとひとり、茂木健一郎が現れた。
「これから脳にいいモノを紹介したい。脳にいいモノの中でも、笑いの感情は特に脳にいい。そして私は、脳にいいお笑い芸人を知っている」
 何の前置きもなく、茂木健一郎はそのようなことを言い出した。
 アハ体験でブレイクした焼け跡のような頭髪の学者が、おすすめのお笑い芸人を視聴者に紹介してくれるのだという。
 僕はリモコンを置いてしばらくこの番組を見てみることにした。タイトルコールすらなく、番組は淡々と進行していった。
 画面がVTRに切り替わる。テリーとドリーで使ってたような真っ白なスタジオに、口ひげを蓄えたジャケット姿の男がうやうやしく現れた。
「…………いち、に、さあんっ! しい、ごお、ろおくっ!!」
 男はその芸でブレイクしたばかりの世界のナベアツだった。3の倍数でアホになるギャグは、その頃まさに旬であった。
「にじゅいち! にじゅに、にじゅさん! にじゅよん!」
 とはいえ、何もないセットで、SEもスタッフ笑いさえもない中40まで数えるその狂態は、深夜のテレビに映るものとしてはシュールを通り越して不気味でさえあった。
「さんじゅろく!! さんじゅひち!! さんじゅはち!!! さんじゅきゅ!!! ………よんじゅう」
 ナベアツが芸を終えるとともに画面が切り替わり、再び現れた茂木健一郎がさっそく饒舌に語り始めた。
「いやねえ、僕はね、この、ナベアツさんという方の大ファンなんですよ、尊敬してると言っても過言ではないです、え。あのー、今見ていただいたネタもね、とっても面白くて、独特で、ね、この、脳科学的な見地から見て非常にいいんですよ。その、見てる我々の側もね、これ、一緒に数えるでしょう? 考えるでしょ? そこがいいんですよね。芸人さんと一体になるっていうね、これは非常にいい体験なんですね、僕はとても好きです。あー」
 茂木健一郎は身振り手振りを混ぜながら、例の海獣めいた表情をほころばせてねっとりとナベアツを絶賛した。

 一連の流れを黙って見ていた僕は、自分の精神が確実に不穏になっていくのを感じた。
 マッドな光景。
 真っ白な背景がだんだん巨大に見えてくる。
 深夜の緩慢な神経が、何か酸っぱい液体にびたびたと浸されていくような感覚だった。
 これは……いや、もう少しだけ見てみよう。

 再び画面が切り替わる。ポーン、というSEとともに、明朝体のテロップで大きく『声カッター』という文字列が現れた。
 白いスタジオに再びナベアツが登場した。彼の横には、ひもで繋がれたゴムの風船が浮かんでいる。
「ええ、みなさん、ええ、いいですか、わたくしは! 声を出して、その声で、衝撃波を作ることができます! え今からあ! こちらの風船を、わたくしの声の衝撃で……割ろうと思います!」
 拳を宙に泳がせながらそう宣言した後、ナベアツは身体をぶるぶると震わせ、風船の方へ向き直った。
「えー、えー、いきます……いきます…………」

 アア゛ッ!!

 ナベアツは鳥のような甲高い奇声を発した。
 風船はびくともしない。

 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!

 ナベアツは狂人の形相で、ひたすら奇声をあげ続ける。風船はびくともしない。

 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!

 風船はびくともしない。

 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!

 風船はびくともしない。

 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!

 風船はびくともしない。

 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!

 風船はびくともしない。

 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!

 風船はびくともしない。

 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!

 風船はびくともしない。

 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!

 風船はびくともしない。

 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!

 風船はびくともしない。

 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!

 風船はびくともしない。

 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!

 風船はびくともしない。

 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!

 風船はびくともしない。

 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!

 風船はびくともしない。

 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!

 風船はびくともしない。

 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
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 アア゛ッ!!

 風船はびくともしない。

 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
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 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!

 風船はびくともしない。

 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!

 風船はびくともしない。

 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
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 風船はびくともしない。

 アア゛ッ!!
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 風船はびくともしない。

 アア゛ッ!!
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 風船はびくともしない。

 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
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 風船はびくともしない。

 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
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 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!

 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!
 アア゛ッ!!

 風船はびくともしないまま、VTRは唐突に終わった。オチはおろか締めの言葉さえないままにナベアツは消え去った。
 再び現れた茂木健一郎は、両手で口元を抑え、くひひ、くふふっ、かふっかふっなどと、楽しそうに笑っている。
「ふふっふっふふふふっ……いや、これね、すごくないですか? 天才的ですよ、これは。だってねえ、声でね、カッターを作るなんて、ふふふ……考えますか? すごいですよね、すごいですよこれ。なんで声で、カッターを作るっていうね。いやあすごいなあ。声……どうしてこんなの思いつくのかな、声でカッターをなんて。いやあ、天才でしょう。驚いたなあ声でカッター……うーんすごい。ふっふっふ、ねえ。こういう。発想。刺激。あるなあ。すごいですねえ。すごい、いいなあ。素晴らしい。感性。見習わなきゃだな、すごいでしょ。こういうのって、天才。なんせね、声が! カッターだもんなあ、追いつけませんよ、ねえ。どうなってるのかな、本当。やっぱり切れてるんだよなあ、センスっていうか、才能のね。すごいなあ、すごい。すごいんだなあ…………」

 あー、これは、見てはいけなかったものだと思い、僕は目を閉じてチャンネルを変えた。
 芸人とグラビアアイドルがパチンコを打つ生臭い番組が映ったので、僕はいよいよテレビを消して寝転び、そしてそのままどろどろと眠ってしまった。

 大した話ではないが、以上が僕の遭遇した不気味な体験である。
 3の倍数でアホになるギャグが流行っていたのだからもうずいぶん昔の話だ。けれど今でも鮮明に、白い背景に浮かぶ茂木健一郎のあの笑顔と、青筋立てて声カッターを繰り出す世界のナベアツの姿を思い出すことができる。
 とはいうものの、あれが現実に放送されたテレビ番組だったとは、未だにどうにも信じられない。というか、信じてしまうのはやばい気がするのだ。キツネに化かされたというのは、こういうことを言うのだろうか。

 その後、声カッターという芸はまったく流行らなかった。
 なぜなら脳に良い悪いの前に、あれは微塵も面白くなかったからだ。



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