クワマン

 グラスに焼酎を半分ほど注ぎ、冷蔵庫からペットボトルの緑茶を取り出した瞬間、電話が鳴った。
 電話の主は教頭だった。
「ああ、お疲れ様です」
 窓の外は夕方とはいえまだ明るい。こういう時間に教頭から自宅に電話が来るのは、決して好ましい事態ではない。
「何か、起きましたか?」
 案の定、俺が担任するクラスの生徒が万引き現場を押さえられたので、店まで行って引き取ってきて欲しい、とのことだった。すでに自宅でくつろぎ始めていたところへの、緊急招集である。
 俺は落胆を悟られぬよう神妙な声色を保ちつつ、「では学校で」と告げて電話を切った。
「また、生徒がなんかしたの?」
 台所から妻が顔を出した。
「万引き。二条通の本屋に迎えに行って来いって」
「あらあ、せっかく部活ないから早く帰ってこれたのに……結構かかりそう?」
「わからん、親がすぐ来てくれれば……孝介帰ってきたらさ、先ご飯食べてて」
 俺は全く気の進まない出かけ支度を始めた。もう一度スーツを着る気にはならず、休日出勤用のジャージに着替えた。腕時計をつけ、キーリモコンで車のエンジンをかける。
 ああ、焼酎をひと口でも飲んだあとなら断れたのに、まったく間の悪い。
「じゃ、パッと行ってくるわ」
「気をつけてね。あ待って、焼きブタ切ったから、一枚」
 俺は焼きブタをもぐもぐさせながら、二条通に向けて車を発進させた。

 フロントガラスから西日が直接差し込んでくる。俺は顔をしかめて日除けをおろした。
 本屋までは十二、三分といったところだろうか。
 中学校の教員を始めてもうじき十五年になるが、俺の経験上、ドラマなどでよくある「学校では真面目な優等生のあいつが、まさか万引きなんて……」というようなケースはかなりレアだ。現実に万引きだタバコだ喧嘩だといった問題を起こすのは、往々にして、いかにも問題を起こしそうな奴らばかりである。
 今回万引きをはたらいた市ヶ谷琉斗という男子生徒は、俺のクラスでも筆頭の要警戒対象だった。
 素行の悪い生徒には二種類いる。ひとつは複数人で徒党を組んでぎゃあぎゃあ騒ぐ者たち。彼らは教員とも馴れ馴れしくつるみ(『絡む』というやつだ)、なあなあの関係を築いてルール違反をなし崩そうとする。
 もうひとつは、教員ともクラスメイトとも関係性を遮断して、突発的(他者からはそう見える)にトラブルを起こす不発弾のような生徒。
 市ヶ谷琉斗はまさしく後者のタイプであった。教員側からいかに熱を込めて指導しようとも、彼は反省や弁解の気配すら見せなかった。既に学校中が市ヶ谷についてはあきらめムードを醸し出していた。
 まさかあいつ、ここに来て万引きの実績を作るとは……。俺はまったく他人事のように眉をひそめた。

 二条通の本屋はビルの一階に入った小規模な店だった。
 俺は店先に無理やり車を停め、咳払いをしながらガラスのドアを引き開けた。
「すいません、甲北中学校の塚田と申します。あのー、うちの生徒が」
「ああはいはい、お待ちしてました。こっち、事務所ですんで」
 背の高い男の店員がテキパキと俺を事務所に案内した。その表情が妙ににこやかだったので俺は戸惑ったが、これが彼にとっての仕事用の顔なのだろう。
 事務所のドアを開けると中にはふたり、おそらく店長であろうあごヒゲを蓄えた男と、仏頂面の市ヶ谷琉斗がデスクをはさんで向かい合って座っていた。
 市ヶ谷は椅子から半ばずり落ちたようなだらしのない姿勢で、ぼんやりと自分の手元を見つめていた。
「甲北中の塚田と申します」
「ああ、これはどうもどうもご苦労様です、わたし、店長です」
 ひげの男は俺を見るやいなや立ち上がり、物腰柔らかく挨拶をした。怒っている様子はない。
「うちの生徒がとんでもないご迷惑をおかけしまして」俺はほんの軽く頭を下げた。
「ああーいやいや、まあね、今回は特にそのお、警察にどうこうとか、弁償とか、そういうつもりはありませんので、先生方のほうでね、なんていうか、きっちりご指導の方を」
「ええ、恐れ入ります」
「うちの店ね、こういうこと滅多にないもんだから、びっくりしましたけど、まあ」
 この店主は俺にとって「当たり」だった。
 店によってはここで、教員の指導方法を憶測だけで否定してきたり、あるいは俺に向かって「ひとつひとつの商品に私たちの生活が云々」といった説法をとうとうと聞かせてくる人間にぶつかる時もある。
 生徒を連れてさっさと帰るという我が職務をなるべく邪魔して欲しくはない。その点でこの店のおやじの態度はたいへんありがたかった。
 俺はデスクに歩み寄り、制服姿でふんぞり返る市ヶ谷を見下ろした。
「市ヶ谷、学校にお母さん呼んでるから、帰るぞ」
 市ヶ谷は俺の方を見もしないが、いつものことなので怒る気も起きない。
 デスクの上には市ヶ谷が盗ろうとしたのであろう本が並べられていた。ゲームの攻略本が一冊に、ワンピースの単行本が二冊。
 出た、ワンピース。
 俺はこの漫画を読んだことはないが、こういう場面で出くわす頻度が異様に高いのであまりいいイメージを持っていない。孝介も好きなんだろうか、ワンピース。
「先生、これ、お茶どうぞ」
 ヒゲの店主がニコニコと、冷えた緑茶を差し出してきた。
「ああ、いえ、お構いなく」
「いやいやどうぞ、外、暑かったでしょ」
 断りきれず、俺は立ったまま緑茶を飲み干した。残念ながら焼酎は入っていなかった。
「ご馳走様です。あのーでは、我々はこれで失礼いたします」長居する必要はまったくないので、ずらかることにした。「市ヶ谷、立て」
 市ヶ谷はこちらを向かずに気怠げに立ち上がった。当事者のこいつが気怠そうに振舞う意味がわからない。
「お店の方にほら、ひと言あんだろ」
 俺は市ヶ谷の背中を軽く叩いた。どうせまだ謝罪のひとつもしちゃいないのだろう。市ヶ谷はむすっとした顔のまま立ち尽くしていたが、やがて観念したのか、じつに小さな声で「……っしゃ」とつぶやいた。

 本屋から出た俺は学校に電話をかけ、市ヶ谷を無事回収したこと、店側が市ヶ谷を不問に処してくれたことを教頭に伝えた。市ヶ谷の母親は既に学校に来ているという。
「まっすぐ学校行くから、お前うしろ乗れ」
 俺は市ヶ谷を車の後部座席に促し、職場に向けて出発した。
「シートベルト、ちゃんとしなさいよ」
 市ヶ谷は俺を無視して、先程と同様のだらしない座り方でふんぞり返っている。
 日が沈みかけた空は不安げに青く、街頭の明かりが一定の間隔で通り過ぎてゆく。車内には乾いた沈黙が充満していた。
 市ヶ谷。
 どうして万引きなんかしたんだ。
 しちゃいけないことだってわかってるんだろう。
 何か嫌なことでもあったか。
 尋ねた方がよさそうなことはいくつも思い浮かんだが、俺は何も言えずにいた。これまで何度となくそういうアプローチを重ねてきたが、実のあるレスポンスが帰ってきたことは一度もないのだ。
 バックミラーに映る市ヶ谷は、長い前髪を退屈そうにいじくっている。
 どうしようもないやつ。俺は浅いため息をついた。
 市ヶ谷の両親は彼が小学生の時に離婚し、現在彼は母親とふたり暮らしだ。母親は帰りが遅く、近くに頼れる親類や友人もない琉斗少年は、あけすけに言って、荒みやすい環境にあった。その点について俺は深く理解している。
 しかし、しかしだ。
 だからっつってそれがどうしたんだよ、というハナシなのだ。
 同じような境遇でも真面目に学生生活を送ってる生徒はたくさんいる。そして俺は、彼らを含めたすべての生徒に、均等に目をかけてやる責任がある。誰かひとりに例外を認めたり、妙な肩入れをすることは決して好ましいことではない。というかそういうのは、死ぬほど面倒くさい。
 それでなくても、俺が望む望まないにかかわらず、手のかかる生徒というのは向こうから勝手にやってくるのだ。そう、例えばこいつのように……。

 時刻は午後六時を少し過ぎている。車内は相変わらずの沈黙にあった。
 中学校に近づくにつれ、俺はだんだんと苛つきを抑えられなくなっていた。
 ……ああ、こいつが万引きなんてしなければ、今頃どうだったろう。
 俺は焼酎の緑茶割りの薄いやつを二杯ほど飲み、早めの風呂にゆっくりと浸かっていただろう。風呂上がりには一旦ビールにシフトして、すでに出来上がっている晩のおかずを少しずつつまむ。そういえば今夜は俺がかねてよりリクエストしていた手羽先とじゃがいもの煮物が出るはずだ。うわあ! 早く帰りたい!
 そして晩酌の最中に少年団から孝介が帰ってくる。孝介が風呂から上がったら直ちに夕食になだれ込む。なんて理想的な家庭の夜だろうか。
 しかしそれも今や叶わぬ理想である。教え子のいたずらひとつで、テレビを見ながら家族でゆっくり飯を食うという小さな幸せさえ摘み取られてしまうのは、本当に理不尽でならない。それが仕事だろ、と言われればそれまでかもしれないが、コドモの小間使いをいくらやったところで給料は変わらない。早く家に帰りたい、今はその一念だけだ。
 ……あっ、そうだ、今日は七時からあれが入るんだ、バカ殿!
 そうだそうだ、今日バカ殿やるんだった、バカ殿。
「……市ヶ谷、今日テレビでバカ殿やるな」
 俺は思わず市ヶ谷に話しかけてしまった。これといって返事はなかったが、まあ、無理もない。
 バックミラーにちらりと目をやると、なぜか市ヶ谷も、こちらをじっと見ていた。

 結局俺たちはその後ひと言も会話のないまま中学校へ到着した。
 グラウンドでは運動部がそれぞれの終わり支度を始めている。
 俺は職員玄関から市ヶ谷を連れて学校に入り、職員室の扉を開けた。
「戻りました」
 職員室の中にある応接ソファに、市ヶ谷の母親が学年主任とともに座っていた。
 仕事着姿の母親はぱっと立ち上がり、小柄な身体を折り曲げて深々と俺に頭を下げた。彼女のばさばさの茶髪の根元がかなり白くなっているのを見て、俺の先ほどまでの苛立ちはやり場なく消えていった。
 生活指導の教員がすぐさま市ヶ谷を捕捉し(肩に手をポンと置いただけだが)、彼らは母親と共に職員室をあとにした。どこか空き教室で聞き取りを始めるのだ。
「やあや、塚田先生ご苦労でした」学年主任が日に焼けた顔をてかてかさせながら俺を労った。「先生あれだったらね、今日はもう帰ってもらって大丈夫よ」
「え、いいんですか」俺は素直に驚いた。
「だって先生、うち帰ってたんでしょ、ここまででいいですよ、話聞くのはこっちでやっておくから。店側もなんも言ってきてないんでしょ?」
「そうですね……」
 俺のローテンションを見透かしたような学年主任のはからいに、俺は素直に甘えることにした。「あのじゃあ、申し訳ありませんが、今日はこれで、よろしくお願いします」
「んーんなんもよ。また明日ね、いろいろ連絡はするから。ああそうだ、市ヶ谷くん、なんか喋った?」
「いえ、いつも通りです」
「そっかあ、まだまだ時間かかるね彼は、じゃあね、お疲れさん」

 もうじき太陽が完全に沈む。
 思いのほか早く帰路につくことができた俺は、わりかし上機嫌に車を走らせていた。明日からの市ヶ谷周辺のことを思えば多少憂鬱にもなるが、とにかく、これならバカ殿が始まる前に家に着けるだろう。
 そういえば最近、俺の中であの番組の見方が変わってきている。
 少し前までは、バカ殿が巻き起こすダイナミックなトラブルを見てヘラヘラ笑っているだけだった。しかしどうも最近は、家老のクワマンや家来のダチョウがバカ殿に振り回される様子に共感する割合が大きくなっている。
 例えばコントの導入部で、バカ殿が一段高い御座所から袴をめくって脚を投げ出し「ひまだなあ、じいよ」とつぶやく。授業を受けている時の生徒の姿が否応なく重なる。
 となると殿に向かって「では○○をなさっては?」とあれこれ必死に提案するクワマンは俺の役だろうか……?
 バカ殿はしばしば「じいはよお、あれもダメ、これもダメで、つまんねえよなあ」などとうそぶく。ダメなものを適宜教えないとお前なんて自動的に崩壊するんだから仕方ないだろ、と俺はクワマンの肩を持ちたくなる。しかし俺が肩を持ったところで、彼は次の瞬間には天井から降ってきた墨汁まみれになる運命だ。
 時折クワマンはバカ殿を面と向かって「バカ」と呼ぶ。するとバカ殿は鬼の形相になって日本刀を抜き、興奮しながらクワマンをたたっ切りにかかる。何かの拍子に自制が効かなくなった生徒が泣きながら彫刻刀やカッターナイフを振り回す、あの光景によく似ていると思う。
 ……ああ、こういうことを考えすぎると本当にバカ殿を楽しめなくなってくるので。この辺でやめておこう。
 俺の職場はコントではないし、生徒に志村けんはいない。それでも多分、労働中の俺はかなり、クワマンじみていると思う。
 そうなんだよ、田代じゃないんだよな、やっぱりクワマンだよ。
 とうとう俺は、ひとりの車内であははと笑い始めてしまった。傍から見ていればバカかもしれないが、クワマンもあれで必死なのだ。
 俺だって教え子の将来のためなら、多少の水浸しとか、粉まみれとか、穴に落ちるくらいの覚悟はできている。面倒くさくてたまらないが、やはりどうしたって、それが俺の選んだ仕事なのだろう。
 ただ、そうやって体を張って君らを助けた際にはぜひ、「うれしいなぁ~」と愉快なダンスのひとつも見せてくれないものだろうか。
 ちょっとだけ、そんな期待をしてたりもする。

 歩道に子供が歩いているのが見える。アディダスのスポーツバッグをぶら下げているあの後ろ姿は孝介だ。
 俺は短くクラクションを鳴らし、振り向いた孝介に笑顔で手を振った。

 おう、少年団終わったのか?
 父ちゃんも家帰るとこだから、後ろ乗りな。
 結構遅くまでやってんだなあ少年団。疲れた? ふふ、だよなあ、今日は早く寝なさいよ。
 あそうだ、今日さ、七時からバカ殿やるの知ってる? お、さすがよく知ってるな、ご飯食べながら観ような。



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