カンカンカンってやるからだよ

 カーテンの向こうに、新鮮な光の気配がある。
 眠気に鈍麻した聴覚を、スズメの声がかしましく刺激する。
 ああ、また今日も、俗に「朝」と呼ばれるあの忌々しい時間がやってきてしまったのだろう。まだまだ眠くてたまらない俺は、一層深く布団に潜り込んだ。
 目覚ましのアラームは鳴り始めて1秒もせずに止めてある。この華麗な早業を半ば無意識のうちにやってのけるところに、低燃費で生きる人間としての熟練とプライドが垣間見えよう。もしこの世界に低燃費の神様とやらが存在するとしたら、俺のような男をもっとも深く寵愛するに違いない。
 ドヤ顔を枕にうずめながら、再び眠りに落ちる。うっすら覚醒し出した脳味噌を怠惰の精神でねじ伏せてゆく工程はなかなかに快感だ。
 まったく朝というやつは、どうしてこう毎日毎日懲りもせずにやってくるのだろう。いったい誰の許可を得て、それを望まぬ者のもとにまでクーデターを繰り返すのか……。
 眠りが深くなっていく。眠りだけが唯一の救いだ。どうせ目を覚ましたところで、待っているのは緩慢でくだらない日々のルーティンに過ぎない。
 低燃費の神様よ、もしもこの世におわしますならば、どうか朝の到来を希望制にしてくれたまえ…………

 カンカンカン!! カンカンカンカン、カンカンカン!!

 突如鳴り響いたけたたましい金属音に、俺は堪らず飛び起きた。
「お兄ちゃん、いつまで寝てるの! もう起きる時間だよ! 学校遅刻しちゃうでしょ!」
 慌てて顔を上げると、目の前には妹の雪那が仁王立ちしていた。
 セーラー服にエプロン姿の雪那は、右手にお玉、左手にフライパンを持って俺を見下ろしている。そして再び両手を上に掲げ――

 カンカンカン!! カンカンカン!! カンカンカンカンカン!!!

「わかった、雪那! 起きるから、起きるからもうやめろ! ほら、いちにい、さんしっ」
 俺はベッドから跳ね起きて、わざとらしくラジオ体操の真似事をした。
 それを見た雪那はようやく音を鳴らすのをやめ、頬をふくらませて俺を叱った。
「まったく、お兄ちゃんたら、ちゃんと自分で起きてよね。毎朝起こすの大変なんだから!」
「お前なあ、それにしたって、起こし方ってものがあるだろ……」
「わがまま言わないの! もうすぐ朝ごはんできるから、早く降りてきてよね!」
「やれやれ……」

「ベーコンエッグ焼いてるから、ちょっと待っててね。あ、お味噌汁は出来てるから、先に飲んでて」
 俺はリビングのテーブルに座り、台所を動き回る妹の背中をあくび混じりに眺めていた。
 両親が仕事で海外に発って半年、俺たち兄妹はふたりきりで暮らしている。雪那はまだ中学生だが、随分と張り切ってこの家の母親役を買って出てくれた。
「あれ、どうしよ、はがれない……」
 少々抜けたところもあるが、まあ、有り体に言って、かわいい妹だ。
「んー? あー、黄身がやぶけちゃう」
 ただ、さっきのように、朝っぱらから色々な意味でうるさいのには困りものだが……。
「なんで、買ったばっかじゃーん!」
「おい雪那、さっきから何騒いでるんだ?」妹が何かに困窮しているので、俺は見かねて声をかけた。「卵の妖精さんと、お話でもしてるのか?」
「あのね、目玉焼きがフライパンにくっついちゃって剥がれないの」
「焦げるまで焼くからだろ、俺は半熟派だぞ」
「焦がしてないもん! 変だなあ、このフライパン、このあいだ買ったばっかりなのに……」
 たかが目玉焼きひとつにも、いろいろ苦労があるらしい。なんにせよ俺にはどうすることもできなさそうなので、どうもしないことにした。
 ……ただ、ひとつだけ気になることがある。
「あのさ雪那、その卵焼いてるフライパンって、さっきも使ってたやつ?」
「え、さっきって?」
「いや、ほら、俺の部屋で、カンカンカンってやった時……」
「そうだよ、このフライパンだけど?」
「やっ……じゃあお前、カンカンカンってやるからだよ!!!!!!! カンカンカンってやるからフライパン傷んじゃったんだろ!!!!!!!」
「は?」
「は? ってことある!!!??? あんな思いっきりカンカンカンカンやったらフライパンだってそりゃなんか変になっちゃうだろうよ!!!!!!!」
「どうしたのお兄ちゃん、急に」
「っていうか俺、カンカンカンってやるときって、フライパンの底っていうかさ、裏側の部分叩くと思ってたんだけど違うの???? テフロン加工の側ぶっ叩いちゃダメでしょうよ!!!! 普通のカンカンカンは裏でやるんだよ、普通のカンカンカンって何だよ!!!!!」
 俺は椅子から立ち上がり、手をこう、バッバッバッとやりながら妹を糾弾した。
 雪那は「こいつは何を言っているんだ」という視線を俺に投げかけ続けている。
「お兄ちゃん、まだ寝ぼけてるの? 早くお味噌汁飲みなよ」
「……そういえばさっきお前、フライパン買い換えたって言ってたよな」
「そうだよ?」
「古いフライパンはどうしたの?」
「え、捨てちゃったけど、使い道ないし」
「じゃそいつカンカンカン係にすりゃよかったじゃねえか!!!! 先代のフライパンならもう他に使わねえんだから遠慮なくカンカンカンってできるだろ、なんで現役で調理に携わってるフライパンがカンカンカン係兼任してんだよ!!!!!!!」
「もう、お兄ちゃんさっきからうるさいんですけど! いいからお味噌汁ついで、ほら」
「……ああ、そうする」
 俺はテンションを抑えるためにも、雪那に従い味噌汁を用意することにした。
 台所へ向かい、湯気の立つ鍋と対峙する。
 片手にお椀、片手にお玉を持って味噌汁をつごうとした瞬間、俺はある発見をした。
 よくよく見ると、お玉の表面に無数の傷が走り、柄の部分がくんにゃりと曲がっているのだ。
「雪那お前、このお玉ってまさか」
「カンカンカンってやったやつだよ」
「あーーーーーほらやっぱりだもんな!!! なして現役の戦士を登用するかねカンカンカンに!!!!!!! いーたーむ、っつってんのにね!!! 曲がっちゃってるもんだってコレほらー!!!!!!! もっと大事に使えばいいじゃないのねー!!!!!」
「…………ごめんなさい」
「あっ」
 雪那が急にうつむいてしまったので、俺は息を詰まらせた。
 ふたり暮らしになってから今日まで、一度だって雪那に向かってこんな風にまくし立てたことはなかったのだ。
 朝の空気が重い沈黙に変わる。
 どうやら俺は、ついにやらかしてしまったらしい。
「……んふっ」
 突然、雪那が変な笑い声を漏らしながら顔をそむけた。
「ふふふっ、ふふふふ……」
「なに雪那、なんで笑ってんの」
「えー? だってさ、なんかさ、お兄ちゃん今、急に昔っぽくなったなって思ったから……お父さんとお母さんが海外行ってから、お兄ちゃんずっと、ヘッタクソなラノベの気ー持ち悪りい主人公みたいだったもん」
 屈託なく話す妹の言葉が、俺の血圧を一気に押し上げた。
「お前バッ、気ー持ち悪りい主人公とかうるせえよ!!!!!」
「なんだっけ、さっきの『卵の妖精さんとお話してんのか?』みたいなやつ、アレ超怖かったもん! なんであんなの言ったの?」
「なんでとか、ないよ!!!」
「あとそうだ、起きた瞬間にラジオ体操的な変なの始めたのも怖かった! 私あれ見て『うわアニメの人だ!』ってなって怖ーえ!って思ったんだけど」
「それ言ったらお前、そもそもフライパンでカンカンカンこそアニメの人しかやらねえやつだろうが! 超ーーうるせえのなアレ!!!」
「あともう1個」
「まだあんのかよ!」
「モノローグがきっしょい!」
「お前、モノローグは触んじゃねえよ!!!!」
「なんかさ、人がご飯作ってる時に後ろでさ、『まあ、有り体に言って、可愛い妹だ』みたいな言ってんの! 聞こえてないと思って! オーエ!! 『有り体』とかオーエ!!」
「……雪那ほんとね、それ以上はダメよ? モノローグまでつっこまれたら俺もう、窒息だから」
「ま、今は全然大丈夫だけどね。一歩間違うと銀魂みたいになってやばいけど、でも私は、こっちのお兄ちゃんの方が全然好き」
「…………!」

 雪那には、全部バレていたのだ。
 両親と離れて暮らすようになってから、俺はずっと「妹の前で寂しがってなんかいられない」と自分に言い聞かせ続けてきた。
 そしていつしか、ヘッタクソなラノベの主人公じみた回りくどい言葉で心を糊塗し、自分を鈍重に改造することに躍起になっていた。
 自分が何かの主人公だと思わなければ、寂しくて、寂しくて、やってられなかったのだ。

「お兄ちゃん、いい加減お味噌汁つがないと、結構遅刻しそうだよ?」
「嘘、マジだちょっと、味噌汁……あー豆腐全然取れねえ!! お玉がぐにゃぐにゃだから!!」
「あはは」
 今、たったこれだけのことで、俺の心は驚くほど軽くなった。
 あえて気ー持ち悪りい表現を借りるなら、フライパンとお玉と、それから雪那のおかげで、俺は本当に心地よく、目を醒ますことができたのだ。
 もう、偽らない。ビックリマークもどんどん増やしていこう。
「あのさ雪那、俺が気持ち悪いんじゃねえのか問題は一旦置いといて、あの、カンカンカンで起こすのはマジでやめてね」
「うん、っていうかお兄ちゃん、自力で起きるっていうアタマはないの?」
「あ、そうだよな、俺が自力で起きれりゃいいんだよな!! うんそうするわ、明日から俺そうする。絶対ひとりでピシッと起きっからな、もうあの、なんなら3時ぐらいに起きちゃうから、早ーえっ、パン屋さんかよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」



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