Jimmy O. Yangで海外の人種ジョークがやっと分かったーまたはリベラルが保守に揺り戻される話

ジミー・オーヤン Jimmy O. Yangというアメリカのコメディアンがいる。
私はドラマ「シリコンバレー」で彼を知り、スタンドアップ・コメディアンであることをなにかのプロフィールで見た。彼のショーがアマプラで配信されているのを最近知った。

動画は2020年のステージと、2023年のステージの2本が配信されている。

https://watch.amazon.co.jp/detail?gti=amzn1.dv.gti.8cb8d401-b91c-93ee-89de-cf60f0436bcf&territory=JP&ref_=share_ios_season&r=web


彼はステージに登場するなり「近年、アジア人の活躍が目覚ましくて嬉しいよ」という話で始める。(そこで触れられる例は「BTS」と「イカゲーム」だ。一般のアメリカ国民にも伝わる知名度でありつつ、「同じアジア人として〜」と括ってもアジア諸国民の反感を買わない絶妙なラインをついているな、と思う。)
本来の人種意識であれば「イカゲームは韓国であって、香港出身の僕には関係ないぞ」というのが筋なのだと思うが、「アジア人」という巨大な大陸と島々がひとまとまりになってようやくアメリカ社会に爪痕を残すことができるというのが現在の「アメリカにおけるアジア人」の現在地なのだな、と思う。
彼の後を追う次世代のアジア人コメディアンたちは「アジア人を一括りにするな」というネタができるだろうが、「アジア人」の一人としてアメリカ人に認められるというのが、ジミー・オーヤンに求められる現在の成果なのだろう。

ところで、アメリカの(というか欧米の)コメディは、かなりキツい人種のステレオタイプがネタになっていると思う。
プロのコメディだけでなく一般人の日常会話の中でも、少し海外の人と話をすると「彼は〇〇人だから」「俺は〇〇人だから」「これだから〇〇人は」みたいなジョークが普通に出てくる。日本でも「大阪人やから、せっかちやねん」「さすが九州男子は酒が強いな」みたいな出身地イジりはあるが、それとは比較にならないような、日本人の感覚だと凍りついてしまうようなヒンシュクものの発言を笑いにしたりする。

そんな文化的素地なので、ジミー・オーヤンのネタも必然的に「アジア人ステレオタイプ」のネタになる。(<アジア人>コメディアンだから「アジアあるある」ばかりをネタにする…というのも少しモヤっとするが、日本でも外国人芸人が「Why Japanese people?」をネタにしているのでこれについては「市場のニーズに合わせた売り出し戦略」だと片付けることにする。)

前述のような冷や冷やする人種ジョークに比べればずいぶんマイルドだ。
自分の両親をネタにして「うちの親は典型的な中国人」「僕は典型的な中国的な育てられ方をした」という中国人あるあるをネタにしている。

曰く、
「中国人の母親の口癖は『いくらだったと思う?』で、絶対に高めの金額を答えないといけない」
「中国人はやたらと算数に命をかけていて、高学年まで電卓禁止で教育する」
「中国人の親は『お前ならできる、自信を持て』なんて言わない、子どもをなじったり『失敗は許さん』と追い詰めるのが彼らの愛情表現だ」
…文面に起こすと「何言ってんだ」って感じだと思うが、ジミーが話すとめちゃくちゃ面白いのでぜひ動画で見ていただきたい…。

私はこれらのネタに思わず笑ってしまった。
「中国人は」という主語になってはいるが、これは関西で育った私にもぴったり当てはまるステレオタイプだからだ。

「わかるわかる、やっぱそうだよね」

普段の生活の中で「日本人と中国人」を「私たち同じだよね」なんて言うのはポリコレ的に超アウトな感じがするが、このネタを見ると、私も間違いなく同じことが当てはまり、彼と同じ環境の中で育ってきていて、懐かしさと共感で笑いが止まらないのだ。

そこで私が感じたのは「私は肯定されている」という感覚だった。

買い物の「安さ自慢」をするなんて、典型的な大阪人みたいで恥ずかしい。
数学の成績を誇るアジア人って、いかにもガリ勉で恥ずかしい。
子育ては自尊心を伸ばしてあげる「叱らない子育て」が大切、虐待なんてあり得ない…。

そういった価値観は、あくまで欧米(の中でも先端的なニューヨークやロサンゼルス)から輸入されたものであって、日本にずっとあるもの、自分がその中で育ってきて、その中で育ってきたからこそ「良くも悪くも、今の自分がある」という自分の構成要素ではない。人として進歩するためにそれらの価値観を「古臭い」「恥ずかしい」とラベリングして漂白してきたが、本当はこれらの価値観は自分にとって「懐かしい」「慣れ親しんだ」もののはずだった。

「イマドキ恥ずかしい」「おばさんみたい」という若い頃に感じていた感覚で30代まで生きると、自分の過去を否定するのにすっかり疲れ切ってしまう。
私はおばさんだし、関西人だし、抗いがたい「平成で育った関西人」の血が流れている。
それを何とか改変しよう、そんな自分を無くして「現代的な」「アメリカ的な」ものに染めようとするのは、もういいかもしれない。

「私、関西人やから、買い物を安く済ませるのに命かけてんねん」
「私、関西人やから、みかん配ってまうねん」
それで笑い者にしてもらえばいいではないか。
笑われないために自分の過去を抹消するのは、そろそろ無理がある。

人種ジョークも、侮辱や自虐だけではなく、「自分にはどうすることもできない、自分を構成する部分」「相手からどうしようもなく滲み出てしまう、その人のDNA」を肯定するためにあるのかもしれない。
…と思いかけたが、でもやっぱりそれでは片付かないほどエゲつないジョークもあるので今後も冷静に観察していきたいと思う。

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