<黒人>に関する私の眼鏡

チママンダ・アディーチェの『アメリカーナ』という小説を読んだ。
ナイジェリアで育った女の子がアメリカの大学に進学し、そこであらゆる人種のことに直面しながら、大学生らしい恋愛や友人関係を経験する恋愛ドラマだ。

訳者後書きにあったように、この小説を読んで「黒人」というものの解像度が私の中でずいぶん変わった。

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日本の地方都市で人種を意識せずに暮らしていると、たとえBLM運動やさまざまなネット情報に触れていたとしても、いかに<黒人>や人種の問題に関して自分が無知であったかを教えられた。

例えば、主人公はナイジェリアに住んでいたとき「黒人」ではなかった。アメリカに移り住み白人やヒスパニックやアジア人に囲まれて、初めて彼女は「黒人」というラベルが付与された。
黒人は地毛が縮れていて、美容院によっては扱い方が分からない。メディアで目にする「ストレートヘアの黒人」は地毛の状態ではないと黒人ならすぐに分かる。オバマ夫人の髪を見て彼らはその事情を察する。
マッチングアプリで、黒人の男性は黒人の女性よりも他の人種を好む傾向が強い(とこの小説では描かれている)。映画に出てくる黒人カップルも、男性はハッキリと「黒人」だが、相手役の女性はたいてい男性よりも肌の色が明るい。男性よりも肌が黒い女性は出てこない。


それを読んだ上で、いまフルシーズン追いかけている海外ドラマ『This Is Us』のことを考えると(観たり止まったりしながら最終シーズンをいま観ている)、この主人公の黒人夫婦も、妻は夫より色が明るい。ここにもまた、著者が小説を通して指摘した<黒人>のアメリカ社会における扱われ方、描かれ方が表れていた。

『This Is Us』に関してもうひとつ私が観ていてどうしても気になってしまうのが、登場人物たちのセリフだ。3歳くらいの幼い子どもが異様に大人っぽいセリフを言う。同じ意味のことを言ったとしても「こんな言葉遣いはまだできないだろう」というような、単語数の多い言い回しが出てくる。(決まった放送時間の中に内容を詰め込まなければいけない地上波ドラマなのだから仕方ない。)
そしてそれと同じように、黒人の登場人物が白人みたいに話す。
黒人といえば立板に水、上部だけの社交辞令よりも竹を割ったような快活さで開けっぴろげに良いことも悪いことも話す、そしてユーモアは忘れず、会話のテンポはラップを聴いているみたいに速い。こう書いてみると大阪人の会話と通ずるものを感じる。
しかしこのドラマに出てくるアフリカ系アメリカ人たちは、間の取り方、間合いの置き方、社交辞令の言い方どれをとっても白人みたいで、私は違和感を覚える。(ベスだけは「黒人らしい」話し方を残しているが、それも脚本の都合で出たり引っ込んだりだ。)

私には黒人の友人はいない。なので私が持っている「黒人らしい会話」のイメージは、もっぱらメディアによってもたらされたものだ。フィクションであれニュースやドキュメンタリーなどノンフィクションであれ、私は「黒人」のリアルを知らないし、彼らの中でも「っぽい」人もいれば「っぽくない」人もいる、その多様性も知らない。
ましてや一口に「アフリカ系アメリカ人」といっても、何世なのか、どんな環境で育ったのかによって「っぽさ」がどうなるのかも知らない。


私が『This Is Us』の黒人の登場人物たちに感じる違和感が、正しい違和感なのか分からない。
そもそも、この手のテーマにおいて「正しい」違和感というものは存在するのか、それも分からない。


『アメリカーナ』を読んで、<黒人>とくに<アメリカに住む黒人>についての私の解像度はぐっと上がった。
しかしそれによって見える世界は、より一層、分からないことだらけのぼやけた世界だった。

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