善意に寄ってたかられる

車椅子ユーザーの話題が人々のなにかの蓋を開けたようで、いろいろな話がタイムラインを通して飛び込んでくる。
「電車で一度、席を譲った相手にマークされてしまう」みたいな話にはすごく「わかるー!!」となってしまった。「わかるー!!」とはなったものの、私は電車で席を譲った人にマークされた経験はない。なのに、この「わかるー!!」はどこから来たのだろうか。

私は「なるべく人に譲り渡すという善行を積極的に行い、徳を積むべき」という価値観を内面化してしまっている。興味深いのは、「譲り渡す」という行為が「善行」であると考えており、それを行うことで「徳が積める」と思っていることだ。
つまり「余った分を処分する」という感覚ではなく、「徳」という対価を得るための「交換」行為だという感覚を持っている、ということである。私は長年、この感覚のせいで「本当は譲り渡してはいけない、自分に必要な分」まで人に明け渡してしまい、でも自分では「その分、徳を得ているのでトントン」だと思い込んでいたが現実には懐がスッカラカン…なんてことが続いた。
人に譲り渡すのは、余っている時だけでいい。
そのことをもっと早くに自分に教えたかった。


こういう感覚で生きてきてしまったので、徳を積むために行った善行のせいで、周囲が勘違いして善意に寄りかかってくるということはあった。
とはいえ、ネットでよく目にする「電車でマーキングされる」「自分が厚意でやっていた仕事が、いつの間にか義務になってしまう」等の経験は思い当たるものがない。

私の場合は、なますである。

中学生のとき、家庭科の授業に教育実習生が来た。
実習のラストに、実習生が自分で考えた授業を実際に行う模擬授業がある。
実習生が用意したのは「日本の伝統料理を作って食べてみる」というものだった。

いくつかの品目をクラスで調理し、最後にみんなで食べる。
その中のひとつに「なます」があった。

なますとは、正月料理などで出る、にんじんと大根を酢で和えた酢の物だ。
この日は、なぜかにんじんの代わりに柿を使った(確か、にんじんは日本に古くからある食材ではなかったから伝統的な食材で代用した…とかそんな理由だったと思う)。

私は、なますを食べるのは初めてだった。クラスメイトのみんなもそうだった。
ついでに私は、酢っぱい食べ物が苦手だった。

なますを口に入れた瞬間、クラスメイトたちは凍りついた。
変な味。
酸っぱ甘い感じも変だが、今思えば「にんじんの代わりに柿を使う」というのがかなりの失敗ポイントだったと思う。ストレートににんじんで作ったほうが分かりやすい味になったと思うし、根菜をフルーツで代用するとか料理オンチの謎アレンジかよ、と今になって思う。
しかし標準的ななますを食べたことがない私たちは、とにかく「変」としか思わなかった。

しかし根っからの気い遣いいな私は、教育実習生の目が泳いでいるのを見てしまった。自分の授業が失敗していないかとハラハラドキドキしている。うら若い、スーツもぶかぶかで垢抜けない実習生の前で「まずい」とは言えない。他のおかずと共に食べれば食べられないというほどではなかった。(これも今にして思えば、いい歳した大学生がオドオドして中学生に気を遣わせるなよ、とも思う。)

私は自他共に認める大食いキャラだったのと、実習生がウルウルしながら私たちの様子を見ているので、なますにクラス一同が固まって「なんか…変な味…」と口々にこぼす中で「私は平気ー、ぜんぜん食べれるー」と虚勢を張った。
実習生を安心させようと、あまつさえ隣の席の女の子が「じゃあ、あげる」と言うのを小鉢ごともらって喜ぶふりをした。

すると、周りの男子もそれにあやかって「じゃあ俺のもあげる」と私に小鉢を突き出してくる。私の周りに、自分のものも含めて4皿ほどのなますが集まる。

「さすがにこんなには食べられない」と言って断ったが、なんだか私は泣きたくなった。

私はこのなますが「他のおかずで流し込めば2人分くらいは食べれる」のであって「何皿も平らげたい」というほどではないということ、そもそも同じ副菜を何人分も食べるなんて食事としておかしいことになぜ思い至らないんだということ、生徒が料理を押し付け合う様子を見ている教育実習生の気持ちを誰も推しはからないこと、自分が周囲に対して気遣いを見せたらこんなにも善意に寄ってたかられるのだということ、あとそもそも人生で初めて食べるなら標準的ななますを食べておきたかった、なんだこの意味わからないアレンジ料理は。

以来、私は正月になますを見るたびにこのことが思い出されて、なますを「美味しい」と素直に認めることができないでいる。

当時は中学生なので他にもいろいろ人間関係のイザコザはあったが、20年以上の時を経た今でも付き合いがあるのは結局このとき私になますを押し付けなかった子だけだ。

そして20年以上が経った今なら思う。
教育実習生は失敗から学ぶのも大切なのだから、中学生がいらぬ気を回してなんとか「成功した」と思わせてあげるのは、むしろ本人のためではない。
実習レポートに堂々と「なますは生徒たちには不評で失敗だった」と書けるように、大声で「まずい」と言ってやっても良かったのだ。まずいまずいと言いながら完食して手を合わせれば良かったのだ。10代に同情されて気を遣われる20代…そのほうがあの実習生の心をえぐったであろう。
気遣いは良いもののようでいて、相手をじわりじわりとえぐるかもしれないのでこれからはハッキリ言おう、でも後ぐされなくしよう。

「情けは人の為ならず」
人に情けをかけるのは、相手のためというよりむしろ自分に得るものがあるのだ、という教えだと思っていた。
今は別の意味で思う。
同情なんて、自分が気持ち良いだけで相手にとっては生殺しも同然だ、いらぬ情けを他人にかけるな。

このような学びを経て「図々しいオバサン」が形成されていくのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?