パニックで大金を払う癖をやめたい
二度目。これで二度目だ。
私はソロ旅行が好きなのだが、旅行していると予定外のトラブルに巻き込まれることもある。
荷物がなくなる、人と揉める、体調を崩す…いろいろなトラブルがあるが、幸い私はそういったトラブルに見舞われたことはほとんどない。
代わりに「移動手段が予定変更になる」という経験はある。
これで二度目だ。
一度目は、旅行のしょっぱなで躓いた。
飛行機の時間を勘違いしていて、旅立ちの最初の飛行機に乗り遅れたのだ。
地上係員さんが尽力してゲート行きのシャトルまで私をダッシュ案内してくれたが、努力虚しく、飛行機は私を置いて離陸した。
飛行機に乗り遅れた乗客はその後、どうなるのか。
本来ならば逆走不可の保安検査、出国審査等々の関門の裏口から外に出されるのだ。
保安検査や審査をやり直すでもなく、ただただ、鍵のかかった鉄のゲートを開けて「さ、どうぞ」と空港ロビーに放出される。
係員さんにとってさっきまで「客」だった私がその資格を失って、ただの「空港ロビーにいる人」に早変わりする。
いつもの旅ならゲートをくぐるたび、機内へと近づくたびに自分が「海外旅行客」に変身していくのだが、その変身が一瞬で解かれる体験はこの時しかない。
いろんな人に迷惑をかけたはずの大ポカだが、この「一瞬で変身が解ける」感覚は独特のものとして私の体に記憶されている。
さて、急に変身が解かれて、私はどうしたか。
パニックになった。
さっきまで私のバディのごとく伴走してくれた係員さんはいなくなり、「旅行客」の変身が解かれてこの後の全ての旅行の行程が、旅費が無駄になるということに大焦りした。
なんとか、なんとか取り戻さなければ。
今から乗れる一番早い便で目的地に辿り着く。
そうすれば、予約したホテル代や現地の移動は予定通りにクリアできる。
私は空港のカウンターに急いで、事情を伝えてその場で次の便の航空券をゲットした。
目玉が飛び出るほど高かった。1枚のチケットのためにボーナスが消えた。
ボーナスは消えるが、背に腹は変えられない。
1週間の旅行がまるまるパアになって、来週職場で「夏休みどうだった?」「いやそれが、旅行には行ってなくて…」と赤っ恥をかく羽目になりたくなければ、この大金を払うしかない。
私は高いチケットを買い、あとは予定通りに旅行の日程をこなした。大変な旅だった。
あれから10年。
二度目だ。
今度は私のポカではなく、予定していた夜行列車が当日運休になった。
やはり私はパニックになった。
慌てて駅で代わりの列車を予約する。
国境を跨ぐ夜行列車の代わりの便なんて、そうそうあるものではない。選択肢は限られていた。週末なので残席も少なかった。
一番安い選択肢でも、元のチケットの5倍の値段がする。高い。購入ボタンを押す指が怯む。
しかし、そのチケットの電車はあと30分後に出発する。それに残席が少ないので、他の人に買われてしまう可能性も。
迷っている時間はない。
私は購入ボタンを押した。
無事に列車に乗って1時間ほどでようやく平静を取り戻してくる。
…よくよく考えれば、5倍の値段を払うよりも、ホテルを1泊とって翌日移動すれば次の宿にもふつうにチェックインできたではないか。
なぜ夜行列車で行くことにこだわってしまったのか。
ホテルに入ってから、鉄道会社と交渉して予約の変更など手続きもできたかもしれない。
私は「予定を変更する」ということに極度のストレスを感じる。
友達に遊びの誘いを受けることすらしんどい。
仕事でも、決まっていた行程に変更が生じるとブチギレてしまう。
キャパが狭くて「考えて行程を計画する」ことと「それをつつがなく実行する」という二つのことを同時並行でできないので、「計画」をしたら、あとは「その通りに実行する」ことに全振りしたいのだ。
なので計画がズレたら、なんとかして元のレールに戻そうとする。
「あーそう来たか、じゃあこっちのルートを楽しもうか」という大きな構えができないのだ。
自分のキャパの無さ、すぐにパニックに陥る精神の弱さを、大金を払うことで補填する人生である。
懐は痛むものの、補填する手段があるだけ、そしてそれで生きて来れているだけまだ御の字なのかもしれない。(今のところ財力のおかげで補填できているのも事実なのだし。)(逆に、今まではその財力があるから学ばなかっただけで、本当に「そんなお金は払えない」となったらその時は真の痛みから学ぶのではないか。)
しかし、自分のこの「キャパのなさに払った生涯金額」を積算すると、とんでもない額になる。旅行に限らず、日々の小さなところでも私はなにかと補填しているのだ。
この癖をやめたい。
トラブルに遭ったとき、急な予定変更が(原因が自分であれ他者であれ)生じたとき、パニックにならずに最善の方法を検討できるようになりたい。
「ははーん、そう来たか」と思える人間になりたい。
今後、私は何かのトラブルに遭ったら「ゆっくりコーヒーを飲む」ことをここに誓う。
それが寝坊であろうが、仕事のトラブルだろうが、友達の遊びの誘いだろうが、一旦それについて早急な判断をすることを避けるためにあえてコーヒーを飲む。その場にコーヒーがなければ、探してでも、いちから淹れてでも飲む。
「即時に対応すれば、被害を最小限に抑えられるかもしれない」そんな考えを捨てて、本当に被害を最小限に抑えるためにも「コーヒーを飲む」という小さなコストを払うことにする。
自分がパニック状態であることを素直に認めて、「コーヒーを飲む」以外のどんな判断も行動もさせないようにパニックの自分を抑制する。
ゆっくり急ぐ。
それが人生の教訓だとものの本で読んだ。
それによって、コーヒーを飲んだらパニックになる、という逆の学習効果が出てしまわないといいのだが。
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