例のnote

インターネット上では…というかTwitter上では、毎日のように「バズっている話題」が生まれては、忘れられていく。
「今日の職場での話題」がテレビのニュースでもYahoo!ニュースでもなく「Twitterの今日のバズ」になる日もある。
野次馬根性で一時的なお祭り騒ぎを観測するのを悪趣味な趣味として楽しんでいるが、しかしこういう趣味は決して自分を良い気分にしない。なんだかモヤモヤしたりイライラしたり、やり場のない気持ちを抱えて1日を過ごすことになる。(ので、なにかコメントを投稿して自分もそのお祭り騒ぎの一部になってしまう、というのがSNSなのだろう。)


昨日、その「お祭り騒ぎ」の中心になっていたnote記事があり、私も読んでみた。
似たような他の人を連想して苦い気持ちになったり、いろいろな感情はあったが、しかし筆者が「思ったことを書かずにはいられない」と書いていた部分にはとても共感した。

私も、思ったことを書かずにいられない。
だからこんなnoteをやっている。
というか、noteに記事を書いたり、Twitterに投稿したりするような人間は「書かずにはいられない」一部の人種だ。多くのSNSユーザーは、見ているだけでわざわざ投稿しない。
ごくごく一部の「自分の思考を自分の中だけに留め置くことができない」タイプの人間が書いたことを閲覧して、たまにいいねボタンを押すのが多数派である。(SNSの利用実態の調査データを見たとき、私はこれに衝撃を受けた。そして周囲の友人知人のSNSの使い方を見ると、確かに「何も書かない」人の方が多数だった。)

「思ったことを書かずにはいられない」ものをネットの海に放流していて、少しアクセス数が伸びてくるとそれが気持ちよくなり、「書いたものをより多くの人に見られたい、承認されたい」という欲求も加わってしまう。
今では「多くの人に見られ、承認され」たところで自分は幸せにならないということが分かったので、今ではこのように誰にも見られなくて良いnoteを投稿している。できれば全く誰にも見られないままの方が良い。アクセス数が増えると人の目を意識して、書きたいことが書けなくなって息苦しくなるからだ。

私のように「呼吸するように書く」「書くことは、呼吸することである」という人間には生きづらい世の中である。
書かなければ思考が止まらず、ぐるぐるぐるぐるとそのことばかり考えてしまい日常生活が手につかないので、吐き出してスッキリと日常に戻るためにも書かなければならないのだ。
誰の目にも触れない日記のようなスタイルならリスクも最小限なのだが、「フォロワーのいないnote」のように「人に見られることは想定していないが、人に見られないように隠しているわけでもない」くらいの手段がちょうど良い。「誰の目にも触れない」ものだと、けっきょく自分の中でぐるぐる思考していることそのままなので、「誰かが見るかもしれないからな…」と言葉を選ぶことで冷静になれるからだ。匿名はてブなんかも良いと思う。(匿名はてブは、誰かに語りかけるという側面がより強いような気はする。)あと、もっと正直に言うと、誰にも見られないように隠している場所だと、人目を憚らない自分からどんな汚い思想や言葉が出てきてしまうのかが怖くて、すくんでしまう。

私のように「書かずにはいられない」「書かなければ、一人でぐるぐる考えてしまって先に進めなくなってしまう」(有名になりたい、商売にしたいという理由で発信しているのではなく)という人は、みんなどうしているのだろう。
絵を描く人も立体を作る人も作曲をする人も、基本的には同じように「やらなくてもいいのに、やらずにはいられない」という衝動を持っていると思う。
そういう人間は、やはりリスクを背負いながらボトルに詰めた手紙を世間という海に放流していくしかないのだろうか。

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