【日記#20230712】若いんだから

てんで駄目な歯磨きだった。深夜のコンビニバイトが流行りの音楽でも流しながら、誰かが見ているかも、と監視カメラに向かって、私は勿論せっせか働いておりますよ、と主張するための床掃除みたいな歯磨きだった。磨く対象が歯と床である以外は全くもって同じだった。かつてはツルツルと光沢のある真白だったが、今ではもう汚れて涅色になってしまったものを磨く、という意味では、あの朝の私は寸分の狂いなく深夜のコンビニバイトだった。

朝早く起きるのは得意だが、覚めるのは苦手だ。予定通り目覚まし時計に従って朝を迎えられても、シリアルが硬いうちに喉を通ったことはない。この頃は、気温が夜鍋して高い数値をキープしてくれるもんだから、非常に眠りが浅く、そのせいでシリアルは液体になった。

気づいたらシリアルは姿を消していたっていうのに、何を磨くための歯磨きだったのか。鏡の中の男に監視されている気分になって、せっせか働いているフリをするために磨いたのだろうか。

とりあえずこんな具合で朝から気分は滅法良くなかったわけで、それならば今日は一つくらい腹を立てても、お天道様だって絆されてお怒りにはなられないだろうな。

私は電車で腹を立てた。午前中の用事が終わり、電車で移動していたとき、腹を立てた。平日の昼間の地下鉄は、いくら東京と言えども閑散としている。閑古鳥が居れば、鳴いてくれそうなもんだが、東京の地下鉄に鳥がいたらそれはもう大問題だ。ピカピカ床の車両の中には、私を含めて四人だけ。自分がお偉いさんだと勘違いして、それはそれは大きく、股をどでんと開きながらスマホを観ている男性二人と、文学少女。文学が何を叫ぼうと、ああいう大股かっぴらき男達の元に届くことは無いんだろうなと思いながら、私は目を瞑った。言わずもがな、穀類加工食品を跡形も無く消し去ってしまうくらいに寝不足の私は、移動中に仮眠をとる。

五駅分寝ていた。五駅目で乗ってきたらしいおっさんが私を起こした。右手で上瞼を、左手で下瞼を摘んで、スナック菓子の袋みたく私の眼を強引に開いて言った。
「若いんだから、立ってなさい。」
まだ目の覚めてない私は、水中に居るみたいに鈍い彼の声に従って、取り敢えず席から立ち上がった。

少しずつ眼球のピント機能が仕事をし始めると、車内は歯抜けの親父のようで、座席はまだ余裕がある。何故おっさんは私を立たせたのか。一枚限りの腹立てチケットを使い切って、私はおっさんを睨み付けながら、彼の眼の前で仁王立ちしてやった。いつまでもおっさんの前に立ち続けてやろうと思った。しかし、おっさんは計り知れないタチの悪さだった。降りた。たったの一駅で。私と、窓の中の私は、そのまま七駅分立ち続け、新宿で降りた。

冷房の無い破れ家に住む私は、この頃目覚めが悪い。磨く歯もないのに、歯ブラシに歯磨き粉を塗り付けた。寝ボケか、ボケか。磨いてみた。口腔ケアとかいうらしい。

こんな暑い中、腰が頗る痛むので、隣町の病院へ行かなくてはならなかった。腰だけでなく、心も痛めてしまったのは私のせいだ。腰の痛みを免罪符に、電車で若者を虐めてしまった。申し訳なくなって、一駅で降りた。

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