鬱病を治す意思

カウンセラーの人が同意してたからそういうことにするけど、11歳から今に至るまでの24年鬱病を持ってる。
その間、楽しい時期もあった。だけどそれは躁ではないか(意訳)って言ってた気もする。

春になったらxxxと思って頑張った。でも、いま、物を捨てることが出来なくて、正直に言うと未練みたいなものが生じた。
この、未練みたいなものって初めてのことだった。惜しいなって。
何に対しても、手から離れるものに、他の感情は湧いても「惜しい」とは思わなかった。だから戸惑った。この「惜しい」が光るものに、希望に見えたから。

これが生じた背景もなんとなく推察してる。端的に言えば「人とのコミュニケーションによる影響」。

痛風治療をしながら痛風鍋を食べるような、
アル中治療をしながら酒を飲むような、
鬱病治療をしながら死を目標とするような。
そういうことをしてたのかなと思う。ところで私は痛風でもアル中でもない。
それをしてしまうのが、病気である所以で、病気の所業でも、これだといわゆる「治るものも治らない」なんだろう。私には鬱病を治す意思が無い。だって、これが無かったらという発想が無いから。だってこれはずっとあったのだから。

だから、治そうという意思を持ったら、
今まで考えたこともなかったものを持ち寄ったら、今までと違う反応が出るのかな?って思った。これって希望のように見える。悍ましい。

これを書いてる今、BGMがルドヴィコ・エイナウディを選出してきてとても美しい気持ちだ。

希望を持つって何をするのかよく分からない。
でも死にたい気持ちに対処するのは、治そうという意思に思える。

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