「ただしさに殺されないために」──最悪の読後感をもたらす良書


これは、「黒の章」だ。あるいはネクロノミコン───。



「黒の章」とは、90年代初頭に人気を博した漫画「幽遊白書」に登場したビデオテープ、ネクロノミコンとはクトゥルフ神話に登場する魔術書のことである。

いずれも架空の記録物ではあるが、共通点がある。「観た、あるいは読んだ人間をしばしば発狂させる」ことだ。

幽遊白書の作中では「あまりの内容の過激さに5分と持たずに人間の見方が変わる」と称されている「黒の章」であるが、この言葉こそ、まさに本書「ただしさに殺されないために」を称賛するに相応しい賛辞とさえ言えよう。



本書におけるそれぞれの文章は独立しており、どこからでも読める。
一方で、さながらホラー映画のように序章から終章まで間髪入れずに襲い来るそのいずれもが身も蓋も無く、手心が無い。目を背けたくなる現実の羅列が全編にわたって通底されているのが本書の特徴である。その意味でも、どこからでも読める。
例示されているのは、あらゆる立場や「ただしさ」に付きまとう属性や権威を無慈悲に剥ぎ取って、裸のまま地下闘技場に放り込み戦わせて賭博に興じるかのような、極めて悪趣味な事実の羅列。
まったくもって救いが無い。端的に言って、著者の性格が悪すぎる。

もっとも、この「目を背けたくなる」問題や存在は、社会の分断は、目を背けてさえいれば消えるのか───。
それが断じて違うことを、本書は薄ら暗い微笑と共に読者に突きつけてくる。のみならず、読者の属性や権威までも当然のように剥ぎ取り、裸にしようとしてくる。
これまでSNSなどで著者の書や言葉を読んで怒りに狂う人物を多々目にしてきたが、なるほど、それらを集積した本書は、何と無神経かつ嫌らしい本なのかと。これを不快に思う人が続出するのは無理も無い。


しかし、その「無神経さ」こそが、本書が指摘する問題と議論に対しての著者の誠実さでさえある。そもそも、「配慮」を当然のように求めている時点で、読者の側にこそ本書が示した「目を背けたくなる」存在と分断、議論に誠実に向き合う覚悟が全く足りないのかも知れない。


ところで、本書のタイトルでは「ただしさ」という言葉が掲げられている。


「正しさ」という言葉は学術的・通俗的様々なケースで使われてきた。ゆえに同じ言葉を用いても、その解釈や使い方も時と場合、人によって大きく異なる。

本書の言う「ただしさ」を、どう捉え理解するべきか。

それは客観的な「正確さ(Correctness)」など全く担保しないのはもちろんのこと、「正義(Justice)」と呼ぶにさえ、理想や大義すらあまりにも色褪せている。
本書に記される「ただしさ」は、「正義(Justice)」が内包する危険な主観性・独善性だけはそのままに、ただひたすら個人のエゴと保身、特権、それらを正当化する権威権力・大義名分ばかりを通俗的に求めるように見える。これは「免罪符」、あるいは何らかの「許可証」とでも理解するに相応しいのではないか。

「ただしさ」を担保するためには、それに反する存在が不可欠となる。
本書で度々取り上げられてきた人々や事例は、そうした「ただしさ」(≒免罪符)を手にすることが出来ず、しばしば「ただしさ」を担保するための犠牲、生贄のようにされてきた存在だ。「免罪符」を手にできなかったそれらの存在にとって、本書は自分達の身を護るための、まさに「ただしさに殺されないため」の福音書にも成り得る。

その一方で、本書にあまりにも誠実に向き合い過ぎた場合もまた、冒頭に書いたように「発狂」してしまうリスクがある。数々の事例はもちろん、(否定的な扱いとはいえ)犯罪者の自己正当化の弁にそのまま触れる部分もある。
正直なところ、純朴で多感な青少年が読むには少々危険があるかも知れない。まさに人間を見る目が変わってしまう「黒の章」であり、あるいは人を狂わせるネクロノミコンのような書と評した所以でもある。

しかし、それを差し引いてもなお、本書は社会にとって必要な一冊であると言えるだろう。「誰もが目を背けていた」問題は、存在しない訳ではないのだから。

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実は、奇しくも私が3月に上梓したばかりの著書のタイトルにも同じ「ただしさ」が使われている。このキーワードこそが、社会に今起こっている問題を紐解くための重要なものになっていると言えるだろう。本書を読む方には、こちらも合わせて読んで頂くと繋がる部分が多いのではないかと思う。

最後に、拙書「『正しさ』の商人」から、本書にも通じる一部のフレーズを引用しつつ、本書に対する書評のまとめとしたい。



かつて歴史を動かしてきたのは武器だったが、現代社会では民意が社会を動かしている。先進国を中心に「ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)」が叫ばれて久しいように、民意に支持された「正しさ(Correctness)」こそが、社会を大きく変える最強の武器になったと言える。その一方で、民意は「正義(Justice)」「不安」「怒り」に容易に流されやすい。そのため、こうした「正義(Justice)」による「正しさ(Correctness)」の上書きや社会における地位や正当性を巡っての激しい主導権争いが、社会の至る所で見られるようになった。

その結果、本書のタイトルにもあるように、「ただしさ」は人を殺しかねない強力な武器となった。
次々と新しい「ただしさ」が作られては、社会に売りつけられる状況は、かつて暗躍した武器商人が「死の商人」と呼ばれたことを思えば、現代は「『正しさ』の商人」がしのぎを削っているとさえ言えるだろう。

一方で、無数の人が売りつけようと創り出したそれらの「正しさ(Justice)」は、必ずしも正しさ(Correctness)を担保してはいない。多くの人が「正しい(Correctness)」と信じて疑わない判断や価値観は、実は「『正しさ』の商人」にいつの間にか売りつけられた粗悪な正義や免罪符といった、事実や客観性に基づかない「まがいものの正しさ」であるかも知れない。

こうした、民意から支持される「正しさ(Correctness)」を巡っての激しい主導権争いと玉石混淆の「正義」「不安」「怒り」の氾濫は、社会に大きな弊害をもたらしている───。








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