『「リベラル」でないと人間扱いされない』バラモン左翼問題

「リベラルでないと人間扱いされない」

海外からも、そんな事例が良く聞こえてきたりこなかったり。いわゆる、「バラモン左翼」問題ですね。この造語自体は、ピケティの言葉。

この貴族のようなサロン化・階級社会化が、世界的に新たな同調圧力と火種、階級を生む権威主義となっている。人権を守る相手も選り好みし、人間扱いしない相手の人権は踏みにじる。

トランプ大統領を生んだ一因と思います。

ぶっちゃけ「反アベ・反政府・反ワクチン・反原発」をはじめとした「反〇×」の末端では、こういうサロン化した「教義」からの同調圧力、権威などによっての暴走が顕著にみられていると思います。
福島への「放射能デマ」が蔓延・維持されてきた一因にも「リベラルしぐさ」的な要素はかなりあると思う。

「知識人・教養人」とされるには、「リベラル」という絶大的な権威、教会への恭順や信仰を示さなければ「人間扱いされない」。アメリカでは、そんな「リベラル」に対しウォークアウェイ運動まで起こっているそうな。

話を日本に戻そう。

そんな「リベラル」の教義的には「神の火を弄んだバベルの塔」扱いの原発が起こした事故とその土地は、神の怒りに触れて滅ぼされたソドムとゴモラのような扱いとされがち。

もちろん、全てがそれで語れるほど単純な話ではないのだけれども。
そうした一因、要因はあったと思えるのです。だから「反権力」を基本姿勢とするマスメディアなどは、この「反権力」という権威主義や教義に陥ってカルト化しやすい。
そもそも朝日新聞が原発事故後に出してきた連載が「プロメテウスの罠」「核の神話」というあたりで、それはあまりにも象徴的であるし。マスメディアから福島に関する「正しい情報」が邪魔扱いされる理由にもつながると思います。

彼らの想定している、社会階級の再構築化像としては、さしずめ

バラモン:左翼・リベラル・マスメディア
クシャトリア:著名人やセレブ・利用価値のある「弱者」(マイノリティ、女性、LGBT)
バイシャ:ノンポリ一般人
スードラ:ネトウヨ、オタク、キモくてカネのないおっさん、利用価値のない弱者

むろん、「権威による社会階級やその格差を減らしていこう」ではなく、このように「自分達に好都合なように社会階級を再構築しよう」というのはリベラリズムなどではなく、単なる別の権威主義でしかない訳なのだけれど。

そういう意味で、「リベラル」の多くは、全くリベラルではないと思う。

つい先日も起こった東京弁護士会の「人権賞」をめぐっての問題も、これを象徴的に示していると思う。

リベラル権威主義上での「バラモン」である東京弁護士会は、「利用価値のない弱者」という「スードラ階級」からの抗議なんて、事実上一顧だにしないであしらうと思うね。

この記事で書かれた構図も、「バラモン」である左翼・リベラルが、「クシャトリア」である「利用価値のある弱者(自主避難者)」を自分達の政局に利用し、「スードラ」である「利用価値のない弱者(福島に暮らす人)」からの抗議の一切を黙殺したというものだと思います。

「リベラル」を名乗る権威主義からの暴力や差別、人権侵害に声をあげ抵抗したリベラルな方々も、もちろん少数ながらいるけれども。

たとえば科学的な事実で福島に暮らす人を守ろうとしてくださった学者は、「御用学者」などとレッテルをはられ攻撃された。
異端審問や魔女狩りの再現そのものだと思う。

その上で。

たとえ「リベラル」でありながら福島へのデマに対抗しようとしてきた少数派の中でも、主流派からの「異端審問」にかけられ踏み絵を迫られるような状況や「弱者」同士の利害が衝突した状況下では、「リベラル」教義や階級を優先してアッサリと手のひら返されるケースも無数にありましたね。

仕方ないですよね。

「リベラル」という巨大な権威からひとたび「異端」として吊るされ糾弾される身になってしまえば、自分の地位も名誉も仕事も脅かされてしまう訳ですから。

そういう状況下になれば。それまで護ろうというポーズしていたスードラのことを、いきなり背中から蹴落としたり、踏み絵の上でステップダンス踊るレベルで必死になるのも仕方ない。

「スードラ」の人権すら尊重するというポーズ自体が「リベラルしぐさ」であった場合、そのポーズのために「リベラル」教会から「異端」にされては本末転倒ですからね。逆に、それでもなおブレなかった孤高のリベラルの人(もちろん複数実在します)こそが本当にリベラル的だなと今も尊敬していますけど。

だからこそ、いつの時代もパトロンを必要としがちな芸術芸能に関わる人たちの多くが、パトロンとなり得る人たちを喜ばせる言動、「リベラルしぐさ」に阿る拘泥するようにもなりがち。(特に、売れていない)芸能関係者の「反〇×」をむき出しにしたツイートなども、処世術みたいなものではないかな。

全体的に地位やカネ、業界内での絶対的権力を持っているのは「バラモン左翼」なので。そちらを喜ばせる言説で生き残りや抜擢、注目を集めるのが生存戦略の「芸人」「アート関係者」の類は、ツイッターでも珍しくないのだとも思います。

全く反骨的でも独創的でも進歩的でもないけど、仕方ないよね。

昨年の「あいちトリエンナーレ騒動」も、結局これなんじゃないかと思う。

バラモン左翼による、バラモン左翼を喜ばせるための、バラモン左翼の権力や教義を誇示するための、従来の既存権威を利用・屈服させての「アート」。

「表現の自由」すら、問題の本質から批判をそらすための口実だったのでは。

既存の権力や権威を最大限に使い、かつそれを侮辱して見せるようなパフォーマンスは、昔の中国で王朝が交代する際「新皇帝」が権力を背景に旧皇帝に譲位させる儀式にも似た印象を感じるね。

彼らにとってのあの芸術祭が「公共ではなく自分達だけでやれ」ではダメだった理由も、その辺りではないかな。

旧来からの権威や権力を利用して旧来からの権威や権力を侮辱し、自分達のそれを高め、社会に誇示することこそが目的であったのだろう。

リベラルとは、稀少で儚い夢であったのかもしれない。









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