「リベラル」は、他者とのしがらみから解放された「リベラル」で在りたいがために、利用価値のない弱者(他者)には寄り添わないのでは。

表題の件、ほとんど出オチだけど。

リベラルとは

・他者とのしがらみから解放された、個人の自由を尊重する

ものだと思う。それはとても大事なことだし、むしろ私もそれを支持していたりはする。

ただ最近感じているのは、その自由への尊重と権利を「自分にとって価値があるものだけに」適用しておきながら、権利とセットになるはずの義務と責任、他者に対しても同様に求められる尊重や配慮を「自分の自由に対するしがらみ(≒非リベラル的な同調圧力)」とみなして忌み嫌っている「リベラル」(自称)が多いのではないか? と思えている。大事なのは社会全体でのリベラリズムや多様性ではなく、自分個人の権利や「お気持ち」、快適さ。「社会よりも個人を尊重」という点が、「リベラル的」といえばそうかも知れないけれども。

ただ、とかく配慮や権利を求めるばかりで、自分は犠牲や負担、責任、対価を払わない。自分のは「権利」、他者のは「利権」・・・とばかりに、何一つ与えない、コストや負担を考慮しないところに問題が生じている。

いつも用意や負担するのは他者。享受するのは自分。あえて「仕事」があるとすれば、現状与えられた配慮や境遇での権利が足りない、ここがダメだ、「お気持ち」が収まらない!と重箱の隅をつついてまでもケチをつけることだけ。

本人達はそれを「批判」と呼び正当化するけど、ちょっと怪しいところ。(批判するなという意味ではない。)なにしろ、無限に要求をエスカレートさせるばかりで問題解決への妥協点がない。ゴールポストを動かし続ける。そもそも一貫して「問題解決に向けての協力」を提供することはないのだから。

しまいには「提供者」への不平不満が誹謗中傷や罵詈雑言にまで発展する。見た目や態度、箸の上げ下ろしのような些細なことにまで難癖を付けて新たな「問題」を「開発」し、何を言っても、逆に何を言わなくても叩く。それ自体が「娯楽」になっている。ある意味で攻撃対象に依存し、「サンドバッグ」としての機能、「心置きなく叩く権利」すら一方的に提供させている。

でも本人達は、その行為によって自意識や使命感、自己肯定感を満たしていく。どんなに的外れで理不尽な言いがかり、因縁であろうとも、「是々非々で批判をしている」「問題点を理解して忠告している」「社会正義のために既得権益者と戦っている」ような自分は、叩かれている相手よりも「格上」「有能」「正しい」と思っていられるのだから。集団になってエコーチェンバーに呑み込まれれば、いよいよその自覚もなくなっていく。

責任者や当事者にしか見えていない背景や事実・複雑な事情なんてお構いなく、自分から見えている景色と思い込み、価値観だけで、叩く。スポーツの試合で観客席から選手や監督にヤジを飛ばす素人やフーリガンと変わらない。( ↓ 参考資料?20年ちょっと前のサントリーボスCMより)


ともあれ。

・・・でも、それってリベラルではなく、単に「お客様根性が肥大化したエゴイスト」「モンスタークレーマーの類」ではないのかな? もちろん、そうではない「本物のリベラル」(と呼ぶべきなのか?)、リベラリストもいるのだろうけれども。

だから「リベラル」を、語られている理想を言葉通りに受け取って「多様性や弱者の味方」「表現や言論の自由を護っている」「権威主義からの解放者」的なイメージとして捉えると見誤る。

その多くは、自分が無条件に満たされることにしか関心はない。なぜならば、自分の権利に伴う義務や負担は、「旧態依然とした抑圧」「同調圧力」であり、憎むべき「反リベラル」的なものだから。

稀に「結果論として」、強い要求が問題解決の力になることもあるけれども。そのために多大な犠牲を払っているのはいつも、現場で奮闘している人たちだったりはする。なのに、その手柄だけは、ちゃっかり「戦果」として横取りというかむしろ総取りしようとするけれども。現場への敬意なんて、心にもない言葉1つ出せればマシな方で、さらなる「批判」「要求」のエスカレートを重ねていくのが大概である。

結果、利用価値の無い弱者には恐ろしく冷淡にもなる。自由や人権を自分は謳歌しても、自分の「お気持ち」を損なう当事者や弱者の人権や自由は、「リベラル」の敵として認めない。「御用〇×」「名誉■$」「▲◇ポチ」だとか平気で言う。平気で差別も攻撃もする。事実上、人間扱いしない。(ちなみに「リベラル」の部分を「ツイフェミ」とか「反〇×」に当てはめてみると、割と共通部分も多いようには感じる)

それは、先日語った「バラモン左翼」問題ともつながっている。


デマだろうがダブスタだろうが、平気で使う。「批判」は得意だが、責任は取らない。要求することしかできず、実務能力はない。どこまでも「お客様」なのだから。こういう人たちに権力を与えたり政治や実務を任せてしまうと、大変なことになるよね。

福島での東電原発事故での事例もいろいろ挙げてみることができるし。

というか、こういう風に考えてしまうようになったのは、「リベラル」主流派による福島に暮らす人たちや暮らしへの冷淡さがきっかけだった。原発事故直後に「味方だ」と信じたあの人たちは、ふたを開けてみれば結果的に、もっとも風評や偏見を広め、自分達の暮らしを苛烈に攻撃してきた人たちだった。どうしてそうなった?? という失意を考え続けた。

この件では最近見た、佐々木俊尚さんの論考が、とても参考になるので多くの人に読んでほしい。


いま、新型コロナウイルス騒動が世界に大きな変革をもたらしている。たぶんアフターコロナの世界では、既存の「リベラル」という権威・階級主義も弱体化し、新しい価値観が主流となっていくのかも知れない。

願わくば、その世界がより人に優しく、多くの人を幸せにするものとなれれば良いのだけれども。


(追伸)

最近、気まぐれに思ったことをnoteに書くことが多くなった。自分への備忘録ついで書いていたら先日、いくつかの記事で思いがけず「サポート」というものをして頂いてしまった。

そうした機能をぜんぜん知らないまま無料の記事を書いていたのに、しかも複数の方からご支援が届いたことに、割と強めに感動しています。ぶっちゃけ、かなりモチベーションあがりました。特にこのご時世に、本当にありがたい限りです。

個別に御礼のメッセージはお送りさせて頂きましたが、この場を借りて重ねて御礼申しあげます。

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