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終わりよければ製造機


卒業式、結婚式、送別会……
人は人生のあらゆる節目でスライドショーを作る。

どんなに散々な期間であっても、スライドショー風に見せられてしまうと「なんか……色々あったけど……なんだかんだ良かったなァ……」と思えてしまう。

あれは一体何なのだろう。

見たことある写真を連続で出すだけ。
それになんか音楽をつけて感動風にしただけ。
言ってしまえばただのまやかしである。編集も楽だし。

なんでそんなものが人の心を動かせるのか。




よく「終わりよければ全てよし」と言われる。
あんなにズルい言い分もない。

この言葉はどんな困難が起きようが「でも結果がよかったから……」でごまかせる裏技のようなものだ。

顧問に殴られたけど試合に勝てたのでよし!
食中毒になったけど痩せたのでよし!
山で死んだけどそこから綺麗なお花が咲いたのでよし!

つまり、何でもいいので「よし」と思えるところで区切りをつければ良い。そこが終わりだと主張すれば、過程が黒でも白にひっくり返る。
ハイパーチートオセロだ。




「終わりよければ……」の「終わり」を人為的に作り出せるのだとしたら、「よければ」はどうだろうか。

我々は強制的にシャットダウンしていくものに無理やり「よさ」を見出すことはできるのだろうか。

例えば、もし世界が終わる日がわかっていたとしたら。
人類は、最後の1日をどう過ごすだろうか。




正直、ギリギリまで確かな実感はわかないと思う。


今まで何度も繰り返してきた24時間というパッケージ。
いくらそれが最後のループだったとしても、急に心持ちを入れ替えるのは難しい。
しかし我々はその空虚さを埋めるが如く、大げさにカウントダウンしたり、大切な人に会いに行ったり、その24時間が何か特別な時間であるかのように過ごすだろう。

そして結局は70億人がそれぞれの人生を振り返り、「なんか……色々あったけど……なんだかんだいい惑星だったなァ……」とか呟きながら爆ぜていくのだろう。

何もかも終わると思えば差別だろうが戦争だろうが全てのカルマが肯定の霧に溶けていく。

罪があって罰がある。
この流れは常に未来があるという前提で成立しており、いつかは罰のない罪を無理やり認めなくてはならない。

「終わりよければ全てよし」は間違った理論ではない。
ただ、別に終わりとされる地点がよいものである必要もないのである。




そんな架空の話をされても、と思うかもしれない。
確かに世界終末時計はまだ残り100秒でとどまっているらしい。
ただ、我々は仮りそめの「終わり」ならもう何度も経験している。

平成が終わった時を思い出してほしい。

元号が変わる瞬間なんて物理的に何かが起きるわけでもない。
昔の人が勝手に決めたルールの上で区切りが訪れただけである。
やろうと思えばいつも通りのなんでもない1日として扱えるはずだ。

なのに自動発生的にイベントや祭りが起こり、終わりがよきものであるかのように演出されていた。

それぞれの人にそれぞれの平成があったはずだが、メディアはノスタルジーあふれる編集で過去のニュース映像を振り返り「なんか……色々あったけど……なんだかんだいい時代だったなァ……」が総意となるような着地を目指した。

今更やれることなんてないほどの瀬戸際が迫ろうが、感傷的にはなれる。
スクランブル交差点に集う人々は定点カメラでモザイクと化し、30年分の穢れを覆い隠した。

日本はたった数年前、国を挙げて「終わり」と「よければ」を同時に作り出したのである。




そして、この製造を個人レベルで可能にしたものがスライドショーだ。



見たことある写真を連続で出すだけ。
この振り返り作業が、現在はある章の「終わり」であると主張している。
背景に流れる感動的な音楽は、その節目がなんとなく「よし」であると演出している。
結果、過程の1つ1つが救われていく。

本当は何も終わってないし、それまでの行いがよいものだとも限らない。

それでも卒業生は、新郎新婦は、退職間際のサラリーマンは、心地よく騙される。

長い期間をかけて何かしてればどうしたって悲喜こもごもが生まれてしまう。
しかし酸いも甘いもスライドにライドさせれば、感情は凝縮され、その濃厚さがあらゆるお茶を濁す。

まやかし・ズル・騙す・お茶を濁す……随分人聞き悪く書いてきたが、スライドショーの本質は「救い」なのだろう。
無限に続く時間を区切る優しい嘘であり、絶対的な「よし」が存在しない世界にそれ自体が「よし」なのだと祝福を与える。

そんな映像が、スマホ1つで作れてしまう。



幸も不幸も「色々」と「なんだかんだ」でごまかすような、なんでもない日々が続いている。

それでも、どこかの区切りで全てが「よし」になるファンタジーを信じている。

インターバルが長いほど、節目に達したときの喜びは大きくなるはずだ。
思えば多くの人がそれを楽しみに様々な壁を乗り越えてきたんじゃないか。

僕が次に見られるスライドショーはどんなものだろう。











それは、走馬灯になるかもしれないが。

















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