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波は凪いでない
感情の理由を聞かれるの苦手だ。
母親と二人暮らしだった子供時代、母は僕がちょっとニヤついただけで「何で笑ってるの?」とか、ちょっと仏頂面しただけで「何で機嫌悪いの?」とか聞いてきた。
ほほえましい光景だと思うかもしれないが、これが24時間続くと思うと地獄である。
ひとつ感情を変えるたびにその理由が問われる生活を想像してみてほしい。
システム的には笑うたびにケツをシバかれるのと同じじゃないか。
あの頃は毎日が大晦日だった。
この日々は徐々に僕の精神を蝕んでいく。
気づけば意図的に喜怒哀楽を抑えるようになり、絵文字は使わなくなり、目は死んだ魚みたいになった。
僕はいつも「俯瞰」で感情を消していた。
例えば葬式で悲しい時。
みんながシリアスな顔をしている画からどんどんカメラを引いていく。
葬儀会場の天井を越え雲をかきわけ青い地球へ…と視点を移していく。
この作業のうちに悲しみの波は凪いでいく。
あと多分途中で故人に会える。
人生はクローズアップで見ると悲劇でロングショットで見ると喜劇だというが、劇かどうかもわからないくらい引きで見ればただの点である。
このテクニックは、いつしかクセになっていた。
どれほど気分が沈んでも、どれほど気分が浮かれても、息継ぎとして視点を引いている自分がいる。
デモ隊の如く、自分の行いを俯瞰せずにちゃんと怒りを持続するなんて僕には絶対できない。
大学生になった今でも、にぎやかな旅行の最中に突然感情が消える時がある。
将来のことを考えてしまうから。
夜中に訳もなく走り出すなど思い立ったこともない。
帰りはどうするのかを考えてしまうから。
人混みの中で泣き叫んだこともない。
ドローンの視点で自分が自分を見ているから。
いつも無意識の俯瞰で逃げている。
そう、俯瞰は「逃げ」である。
僕は感情を消しているのではなく、感情から逃げているんじゃないか。
波が凪いでいるのではない。
自分が勝手に浜に上がってるだけだ。
ブリキのロボじゃあるまいし、逃げずに内部に飛び込めばどこかに感情は見つかるだろう。
その波に乗れば、きっと死んだ魚も泳ぎだす。
ドラマに出てくる無表情な登場人物はたいていクライマックスで泣く。
つまり激情は成長の証なのだ。
感情表現が豊かな人は才能があるわけではない。
自分の喜怒哀楽をうまく乗りこなしているのだろう。
悲劇だか喜劇だかは知らないが、クライマックスがない劇だけは見たくない。
次に感動が押し寄せたら、決死のパドリングで突っ込んでいきたい。
そう思いながら波を待っている。
ビッグウェーブの予感がした時、僕はついほくそ笑んでしまうかもしれない。
その時には、笑みの理由は聞かないでほしい。
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