結局、「日々謙虚、日々感謝」なんだという話。

 さて、最近の僕は余裕がなかったと思う。
 社会人が始まって気を遣うことも多ければ、純粋に忙しく疲労が溜まっていた。休日もベッドの上でショート動画を見ていることがほとんどで、何もやる気が起きなかった。このままじゃダメだということはなんとなく分かりつつも、目の前のことに精一杯で、自分自身の余裕を取り戻す機会などなかった。

 自分で言うのも憚られるが、僕は真面目過ぎなのだと思う。目も前のことを全て完璧にこなそうとして、自分を追い込んでしまう。辛い時も人に相談せず、自分一人で抱え込んで、疲労の借金は途端に膨れ上がっていく。その先に待っているのは、鬱病と自殺だ。これは決して、冗談ではなくて。

 今までの僕はそんな「鬱病への一本道」を回避する手段として、爆発を用いてきた。まあ、要は辛いことからバックれたり、物理的に遠いところへ旅に出るとか、ひたすら泣き叫ぶとかそういった類のことだ。しかし、この方法はあまり良い方法であるとは言えない。なぜなら、僕が爆発と表現している通り、自分自身の心が限界を迎えた時、それを解消するために自分の人間関係や評価を犠牲にして感情を発散することは、発散した後の自分に大きな禍根を残す。せっかく無理して取り組んできた何かも、その「爆発」のせいで無に帰しかねない。

 では、そうすれば良いのか。
 方法は一つだ。
 「日々謙虚。日々感謝。」を忘れないことしかないだろう。
 自分が無理をしている時、自分は何のために無理をしているのかを考える。「自分が出世するため」「自分が周りに認められるため」というように、自分本位の答えが出てきたら、それは「日々謙虚。日々感謝。」をまるで意識できていない。そのような自分本位の価値観に縛られている限り、僕らは自分が無理をしていることの価値に客観的事実を与えることができず、永遠に苦しみ続けることになる。
 それに、僕らは本当に自分のためだけに無理をしているのだろうか。自分が出世したり、承認されたりするためには、他者の存在が不可欠だ。そして言わずもがな、今の自分があるのは、他者が自分を認めてくれる、ここにいて良いと言ってくれているおかげだ。自分に余裕がなくなるとそれを忘れて、自分にばかり目がいってしまう。メールの文章が雑になり、飲み会で他者に気が使えなくなる。しかし、それではいけない。

 自分が今の会社にいることができるのは、会社の人たちが採用面接で自分を認めてくれたおかげだ。両親を始め、バイト先の社員さんや、大学の先輩方など、多くの大人が僕を助けてくれたおかげだ。
 僕が毎日しょうもないnoteを書き続けることができるのは、しょうもないながらも読んでくれている人のおかげだ。彼らが僕の友人でいてくれたり、僕の記事に少しばかりの興味を持ってくれているおかげだ。
 僕が自分の思ったことを人に話したり、新しい知識や経験を得ることができるのは、今も僕の友達でいてくれる人のおかげだ。
 僕は一人で生きているわけではなくて、様々な人に支えられたり、つながり合う中で僕がいる。だからこそ、今の僕は僕でいられる。
 これからも僕を形作ってくれた繋がりの中で生き、僕が僕らしく生きることができる方法は一つしかない。「日々謙虚、日々感謝」を忘れないことだ。

 自分がどうしたいかではなく、他人にどう見えるかで考える。
 恥はかいてもかかせるな。
 自身のない謙虚は卑屈と同じ。
 日々謙虚、日々感謝。
 明日からも頑張ろう。
 

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