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誰のために愛するか

曽野綾子『誰のために愛するかーすべてを賭けて生きる才覚ー』角川書店(1979)
★「愛」について。夫・三浦朱門や息子との関係性を軸に書かれる、筆者のぞんざいかつ、命を賭した愛し方。

 著者いわく、「愛」の評価基準は自己犠牲にある。火事の家に子どもが取り残されたとき、迷わず火の中に飛び込んでいけるか、愛している男のために、女のために死ねるのか。それが私たちにとって一つの愛の指標であり、踏み絵であるのだと。

 言葉にそこそこ神経質なので、今まで誰かに愛してると言ったことはすごく少ないけれど(それで何回か人の気を揉ませたが、上手く説明できる気がしなかった)でもやっぱり何度かはあるし、友達が惚気けたら、愛だねと言ったりする。そんな時に命をかけた愛を想定したことは無かった。そもそも私は、誰かの為に死ねると思ったことが、一度もない。

 私の「愛」は曽野綾子に言わせれば全て、ありふれて不要な、虚構の愛だけど、私は、普段かるい気持ちで喜んで聴いている愛してるを失いたくない。決死の覚悟をこめられても現状正直めんどうくさいし、たぶん近くにいるのが怖くなる。何より、もし命を賭せるような "本当の" 愛に出会う日が来るとして、軽くてふんわりした愛と比較もせずに、どうしてそれが本当だと気がつけるのか。

 自己犠牲という観点から言えば、わたしたちは(理不尽に奪われない恵まれた環境を前提にすれば)少しずつ自分を犠牲にできるように成長していくものだと思う。小さい頃は誰にもあげたくなかったよもぎもちを、大好きなお母さんになら一口あげられるようになり(これは私のはなし)、好きな人に半分あげられるようになり、もしかしたら子供には全部あげられるかもしれない。20余年前、お気に入りの人形を貸したくなくて泣き喚いていたはずなのに、いつのまにかお気に入りの本こそ人に押し付けたくなっている。お魚の焦げた方は自分で食べるし、オムライスは綺麗につつめた方を食べてもらいたい。自分しかいなかった小さな世界の中に、他人の存在を認めて、受け入れて、自分の人生を少しあげたくなる。これって愛じゃなかったらなんなんだ。いつか妻や母や祖母になって(ならなくても)誰かに命をあげたいと思える日がくるのかもしれない。でもそれはやっぱり特別な唯一の愛じゃなくて、軽はずみな愛の延長だと思う。おもちゃが本になって、お金になって、時間になって、人生になって、命になっただけだ。

 さて曽野綾子は男尊女卑的な発言や、その他もろもろ過激な意見で炎上することも多い人で、30年前に発刊されたこの作品にも、トンデモな文章が散見される。特に作品後半は「女性は男性と比べて生物学的に劣っていて、運動もできなければ頭も良くないが、ただ盲目に信じるという才能だけは男性以上にある」という意見を主軸にしており、読んでいて普通に腹が立った。私は彼女が作家として好きで、以前は遠藤周作と曽野綾子用の本棚があったくらい(多作だからだけど)。キリスト教や神に関するエッセイなんかの、よくぞここまでという突き詰め方や、生や死に対する思索の深さが好きだ。曖昧なことを考え尽くして言葉にしてくれる人だと思っている。だけどそんな理詰めな彼女が、愛を前にすると全ての理性を放棄するから困惑してしまう。女性があまり仕事を持たない時代にあって文筆家としてばりばり生計を立てていた稀代の才女に「妻は無能に夫を盲信するべきだ」と言い切らせてしまう「愛」が私には恐ろしく、少しだけ羨ましい。

 誰のために愛するか。「すべてを賭けて愛する才覚」を持った人は、命をかけて、夫や子供のために愛しているのだろう。私は今のところ自分のために愛している。自分の心を、命なんかかけられない軽はずみな愛でもって耕したくて、愛している。 

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