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奥州平泉文化は謎!

日本の歴史 違和感その2
小中高と、日本史を勉強する時のパターンとしてとても力の入る年代と、さらーっと駆け抜けていく年代ってあると思うんですよね。

前回ハこちらから、見て下さいね!

で、「前九年の役 後三年の役」ってみなさん、覚えてらっしゃいます? 役という言い方も差別的な意味があるので、最近は合戦と表記されているようなんですけどね。(この話になると、別方向にいっちゃうので、とりあえず 元に戻します。)

この、前九年・後三年の闘いから台頭したのが、藤原清衡 奥州藤原氏三代 平泉文化の祖なんですよねー。
この、12年にも及ぶ戦の中で失われた魂の鎮魂と、平和な世を願い建立されたのが、中尊寺金色堂。本当に、美しいと思います。
残念ながらその後、源義経とともに、平泉はズタズタにされてしまうのですけれど…。

で、何が違和感かというと、この金色堂を中心として、中央に引けを取らない都が、急に岩手に作られたという事なんです。

その、財力 技術 材料 その他もろもろ、単純に戦に勝利したからと言って、成しうるものなのか?うーん?後三年は実は、お家騒動みたいなものなんですよ。うーん?

私が小中の頃の歴史の教科書には、東北地方は、地図に書かれてなかったんですよね。子供心に、なんとなく関東以北は、草っ原のイメージで、何もないと思っていたくらいです。
しかも、岩手は、いうなれば、蝦夷の拠点。その中に、黄金文化が突如として、花開いちゃうんですよ。しかも、藤原氏はミイラとして祀られている。違和感しかなかったですね。

けれど、その頃はまだ他にもたくさんの興味・関心、する事がありましたから、心の奥底に眠らせてしまいましたが、歳を重ねてまた何故か蝦夷について、様々思いを馳せるようになりました。

この続きはまた。

前九年・後三年の合戦についてご興味のある方は是非とも、高橋克彦著 炎立つ をご一読いただきたいです。

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