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日記 2024.4.16

 今日は、レッスンの仕事が一件入っていた。レッスンは楽しい。僕にとっては、大事な音楽活動の一つだ。弾き語りのレッスンなのだが、リズムが歌と楽器をつなぐ糊だということをかなりしつこく言っている。リズムには、グルーヴの意味もあるし、"流れ"の意味もある。"流れ" というのは、言うなれば書道でいう筆の勢いみたいなものだと説明した。それもまたリズム。リズムで人は絵を見る、ということを金沢の偉大な画家である友人が言っていて、なるほどと思ったことがある。確かに、音楽も、全体性が重要だ。それを司るのがリズム。テンポキープのことではない。リズムの杭を打つことで、余白、真空地帯が浮き彫りになりそこで遊ぶことができる。

 それから、一件レッスンがキャンセルになったので煙草ふかしながら南部へドライブ。知念村の方の雰囲気はあまり行かない地域ということもあって新鮮だった。道の駅や、市庁舎が新しく綺麗だった。自然の中に立ち現れる割と新しく小綺麗な公共施設が僕は好きなのだ。質素でお洒落で、心のざわつきを抑えてくれる感じがするのだ。なだらかな山が道に沿ってずっとある。窓を開けて車を走らせると虫の音がかしましい。心地良い。海がすぐ傍にあり、湿気を含んだ風は春を通り越して初夏のそれだ。風や音がさまざまな記憶をからだの底に想起させる。こういう時、僕は"かなしさ" を覚える。この"かなしさ" は音楽の重要なエッセンスだ。決して、"悲しさ" ではないのだ。恋情に近いだろうか。けれど、いわゆる燃え上がる恋のそれではない。長く会えない寂しさ、その会えない間に、喜びも参加して寂しさの色が濃くなってきた、そんな恋情に近い。愉快なだけが沖縄ではない。"かなしさ" は重要なテーマだ。
 そうそう。帰宅して、6月のイベント向けに曲を書いたのだが、まさしく"愉快な" 沖縄のイメージとはまた違ったイメージで書いてみたのだ。というのも、共演するエイサーの友人が以前教えてくれた元祖チョンダラーのイメージがあったからだ。
 一般的にはチョンダラーは、道化のイメージがあるが元祖は違うらしい。彼が元祖のスタイルでやっている動画をみたことがある。本当の意味でお盆ぽいのだ。傘をかぶり個性を消して妖しく踊るのだ。その妖しさは抑制がきいていて、尚こわい。霊界と現世をつなぐ存在、というのを感じた。ここにも、"愉快" "陽気" だけじゃない沖縄をみて、是非曲を書きたいと思ったのだ。
 ただ、今日かけた曲はなんとなくコザの街のイメージになった。そこに、東南アジアの香りが少しするような曲になった。これはこれでいいものが書けた。
 チョンダラーは明日だな。

 絵も描いた。
 明日に備えて寝ます。


普天満神宮寺の横の"大師堂"
何する建物なんだろうか

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