救済


こころが元気じゃない時に選ぶお笑いの傾向がわかってきた。
馬鹿馬鹿しいが全面に出ているかつ、馬鹿馬鹿しいだけじゃないやつ。コロコロコミックくらいのやつ。頭は空っぽにするほどじゃないやつ。

頭を空っぽにして楽しむタイプのお笑いは元気じゃなさすぎると眩しすぎてしんどくなる。頭を空っぽにしてるはずなのに。余計に。

ネガティブの木。ネガティブの木にネガティブの実。


お笑いは"楽しいブースト"だと思っているので、お笑いによって楽しくなる、というよりは楽しいをより強くするものだと思っている。
これは楽しい時に限った話で、そもそも楽しくない時はまず楽しくならないとお笑いに手を伸ばせなくなる。
唯一「楽しくなる」を実現できるお笑いの枠が私の中にあって、最近はそれを意識的に選んでる。救済のお笑い。安定枠。

最近の救済はぎょねこのラジオとネタです。

「この先この5組のネタしか見られないとしたら誰を選ぶか?」という話で盛り上がり、私の5組を選んだ。
この5組を考えるにあたっても前述の「救済のお笑い」「安定枠」のことを考えた。ただ好き、見ていたい、だけじゃない、私がお笑いを好きであり続けるためには必要な枠だと思った。

これを考えながらわたしはやっぱり「お笑い」が好きなのだと思った。お笑いが好きな上でお笑い芸人が好き。カルボナーラ好きだけど、というよりはスパゲッティがそもそも好きで…みたいな話。

無意識に救済のお笑いに手を伸ばしてるということはこころが不調の合図なのでは?と思ったけど(去年体調を崩してぐずぐずだった時「救済のお笑い」しか見れない時期があったことからの逆算)、単純に今わたしがぎょねこブームなだけなのかもしれない。
ぎょねこ面白い。別に最近「ぎょねこ面白い!」と気づいたわけじゃなくてぎょねこは初めて見た時から面白かったんだけど。
そんな人がライブにはたくさんいる。お笑いっていいな。ライブたくさん見に行くようにってよかった。
今お笑いを見てなかったら私はどうなってたんだろう。

救済は別にお笑いだけじゃない。例えば大事な人が幸せに生きていたらそれだけで私にとっては救済になる。生きていくことができる。
私が生きていくためにはみんなの幸せを願わずにはいられないのだけど、そうするには私が幸せでないといけないらしい。みんなが幸せじゃないと私が幸せになれないけど、私が幸せじゃなくてもみんなは幸せだから良いのでは?

こんなことを考えてる日はこころが健康ではないので今日もぎょねじおを聞きながら寝る。

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