ちやほや について
【哲学対話×Dabel】Vol.16 テーマ:チヤホヤされたい!とは https://t.co/sD8QIYvESz
— SHIOKO (@id405shioko) October 12, 2020
チヤホヤについての哲学対話に参加したので、チヤホヤについて書いていきたいと思います。
※個人情報保護のため、ここで他の方が話した中身と言うよりかは、これきっかけに色々考えたことを書いていこうかなと思います。
・チヤホヤとはなんぞや
《副[と]・ス自他》相手を甘やかしたり機嫌をとったりして、大切に扱うさま。
ちやほやされる。ちやほやする。誰だってちやほやされたい。
みんなに甘やかされたいし、大切に扱われたい。
そういう欲求全般かなと思う。
そんでもって、それについて話す哲学対話を行った。
前段を話しておくと、僕はしばらく、Twitterのふぁぼといいねを取りに行くことにめちゃくちゃ執着していた。というか、そもそも何の称号も、学歴も資格も、特になんにもなかったので、それ以外での自分を確立させるもんがなくて、めちゃくちゃに執着していた。
僕は基本的に、ちやほやのプロです。
なので、何をどう言えばみんなが喜んで、こういうフォロワーが増えたからこういうことを言っていたらRTといいねが伸びるな、ということがわかっていたので、それを延々と繰り返していました。
ただ、しばらくして
「これで得られるいいねやRT、意味あるんか?」
と思って、全て放棄しました。
しばらくTwitterヤメて、結構いいねやRTしてくれるけどほとんどこちらからは絡まない人をブロ解して、いくらドヤ顔で偉そうなこといってもいいねやRTが来て大拡散しない状態を作って、平和なツイートばっかりしてました。
けど、当たり前ですが、別にそれ放棄したからって自分は消えてなくならないんですな。いや、めっちゃ当たり前なのですが、ハマってると気づかんのですなこれ。びっくり。
そのタイミングでようやっと一人暮らしも始めて、一人で自分のこと見返すの繰り返して、そーなると、そこから離れた自分がなんぞやってところがよー見えるようになってきて、ようやくいいねやRTに飲み込まれた自分が、ふんわり戻ってきて、それだけじゃなくて、他人とか、親やらあれやこれやからすべて離れた自分がどーしたいんだろ、っていう欲望、その欲望の形がきれいに見えるようになってきました。
→大切なのは、チヤホヤされたい自分の欲望の形を確かめながら生きることで、禁欲的に生きることが大切なんじゃないんだろう。チヤホヤされることにそのまま罠があるんじゃなくて、自分の欲望の形が見えなくなって、支配的になってしまうことに罠があるんだろう。
— まくねがお (@makunegao) September 29, 2020
(欲望の形…というのはここから引用しました)
結局、欲望の形が見えないまま、自分はほんとはどうしたいんだろう?というのが見えないままちやほやを求めていくと、今自分は、今の自分の意見が正しいのかを求めてTwitterへ発信しているはずだったのに、自分の賛成派の人からいいねRTの雨あられ、それだけで満足して、本当にやりたかったこと(正しさの精査)はうやむやになったまま、見かけ上満足してどんどん先へ進んでいくということが発生し、自分が一見前進しているように見えてなにも前進していないという現象が起こり始める。
まあシンプルに言うと、「うおお!!! チヤホヤほしい!!!」というときと「いやここはチヤホヤなしで…」というところをはっきり分けて、素直に求めるときは求めるし、いらん時ははっきりとチヤホヤと決別して、意見を述べたり、ツイートしたり…ということを心がけていかないと、マジョリティに迎合していくばっかりで、むしろどんどん自分が消えてなくなってしまって、個性が死んでいく。
話は変わるけど、最近Twitterではチヤホヤされたいがゆえに、個性のない発信をする人が増えた。いわゆる「バズ文脈」でしか話をしない人が増えた。Twitterで上げる漫画にしても、いかにも万人受けしそうなものに合わせてきているひとも増えた。
けどはっきりいって、それで得られるものって結局は中身がないので、RTやいいねばかりで、直接的な実利につながるものは少ないのだ。
バズ文脈。
なんかこういってりゃバズリそうという文脈です。
これ、僕はわかるので、バズりたい人は教えますが、ただし中身はクソの欠片もありませんので、その先にあるのは「なんかバズってるけどなにやってるのかもよくわからないし、別にたまにみれりゃいいだけのファンがつかない人」が生まれますのでご注意ください。
結局そういうバズ文脈に載せてバズったものなんて、他の人もそれに載せりゃいいわけだから、そんなものでバズったところで、他人にすぐ奪われてしまう。
そういう代替可能なバズ、代替可能なチヤホヤを得たところで、それは一時のオナニーでしかなく、結局はそのうち本当のセックスがしたくなる。ちゃんと自分をしっかり見てくれる、小さなちやほやが欲しくなる。オナニーが無意味だと気づいていく。
チヤホヤしてくれる人は、いったい何を見ているのか?
「わたし」を見ているのか?
わたしの何を見ている?
わたしの作品を見ているのか?
それとも「今消費するだけのコンテンツ」とだけしか見ていないのか?
それともわたしの知り合いにいるプロを見ているのか?
わたしの金か?
容姿か?
性別か?
そこが見えなくなればなるほど、それが見えなくなるほどにチヤホヤを求めていくと、どんどん欲望の形が見えなくなって、今何を求めて、何を得ているかがぐちゃぐちゃになり、さもすべて得ているような錯覚になり、しかし何も得ていないという地獄絵図が完成しちゃうんじゃないんだろうか。
というわけで、チヤホヤの危険性を何となく説明したが、ちやほやは欲望の形がはっきりとわかっていれば、「今私はこのチヤホヤを求めてやっているんだよっ!!」と恥ずかしがらずにやっていけば、別にそんなに怖いもんではない。ただ、僕はハマりまくったので、忠告をしました。
ぶっちゃけた話、チヤホヤいーーらねっ!!って人、そうそういません。通常、欲しいものです。なので、そこは素直に「はいはーい!!!!!!チヤホヤ!!!!!!!チヤホヤほしいです!!!!!!!!ちやほや!!!!!!!!!!!!!」となれることで、危険度は下がると思う、変に「お、おれチヤホヤいらんし…」としていくと欲望の形がぐにゃぐにゃになって危ない。欲望の形を保とう。
そのためにも、素直にチヤホヤされよう。それが一番だと思う。
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