「VRおじさんの初恋」について ~夢のある、夢のない物語は辛い~


オタク的恋愛コンテンツってめちゃくちゃ夢がふんだんにあってよい。

空から少女が降ってくるわ、少女が湧いて出てくるわ幽霊としても出てくるわ、絶対にありえない出会いと体験がめちゃくちゃにあふれていて、僕は思春期時代とてもハマったもんだ。とりわけ恋愛ゲーム。それは今でもよい思い出だし、忘れない。

ただ、それを思い出すたびに、つらさが出てくる。

「ま、俺はこんなこと、現実で経験してないんですけどね」

「ありえないんですけどね」

モテもそうだが、「輝かしい青春」それそのものがありえないものである。学園祭のバンド。出店。その成功。体育祭の団結。そんな輝かしいものは全部クソクソ死ね死ねと言いながら見たくもなくてゴミ箱にぶち込んできた。恋愛ゲームは当たり前だが、いくら夢が詰め込まれていても、多少の現実が混ざってくる。学校だとか同級生とか学園祭とかなんだとか。反面、僕の高校時代の思い出なんてものはすべてゲームしかなくて、高校は自由な校風だったから、参加しなきゃ参加しないでよかったから、学園祭も、体育祭も、だいたいほとんどサボっていて、だいたい僕の振る舞いがひどくて友人からキレられ、友人関係も広がらず、思い返せば思い返すたび、「ああ、ゲームの思い出があったな」と言う感じで、今高校時代を懐かしめと言われたら、ゲームを懐かしむしかやることがない。でも、その当時の僕は、完全に現実とゲームは分けていて、ゲームはゲームで楽しんでいたから、現実の学園祭なんてどうでもよかった。ゲームで楽しけりゃよかった。

それを学生時代はなんちゃ思ってなかったが、いくらか年取ると「ま、希望ないわな」という自虐的な気持ちがふつふつと湧いてくる。

輝かしい青春を送り、輝かしい成功を積み重ねてきている人々を見て、仕事でコミュニケーションも人望も能力も違う人々を見て、「ま、違う人種ですわな」と遠巻きに見ているだけ。

大人になって、視界が広がってきて、「ま、ゲームの中だけっしょ」と思っていたものが、現実でも輝かしい青春を送ってきた人々を見てきて胸が痛い。

青春に限らないで考えても、結局、夢がありすぎる物語って、夢がないのだ。

現実味がない。僕に実現できる力がない。見た目がない。能力がない。基礎がない。人望がない。夢を楽しむたびに、その夢に傷つけられる自分がどこかにいるのだ。希望がない、と言ったほうがいいんだろうか。


だから、「VRおじさんの初恋」には、希望があってよかったなとボロボロと泣いた。

VR上で出会った人がどうせクソ美少女でそこから人生大逆転、はいはいよかったね~そんなことありえんわ死ね、と思いながらも「ちょwwwおまwwww」「ウラヤマシスwwww」と真顔でコメント打ち込もうと思ってたから完全に油断していたのだ。

おじさん同士でいいのだ。救うのは。

人を現実に救うのは人であり、空から降ってきた美少女でも突然現れた転校生でもない。

救いがあったな、と、僕はとても思ったのだ。

みじめで、絵面はきれいじゃなくて、汚いおっさん二人でボロボロ泣き合って、それでいいのだ。辛い辛い、と言いながら、二人で泣いていいじゃない。成功とか勝利とか、女を手に入れたら勝利~~バズったら勝利~~Youtuberで一発逆転~~異世界転生で最強になったんだが????とか、そんなのいらんねん。遠い遠いファンタジー成功物語はいらんねん。

ただただ、目の前で、ほんとうに少しだけ、がちっとこの手で感じられる、少しの幸せがあればそれでいい。

霧のように全くつかめないけど無限に広がるような、そんな夢はもういらない。

だから、そういう意味で、「VRおじさんの初恋」には、夢も希望もあるのだ。

僕はロスジェネでもない20代男子なので、作者が言いたいこととは違うかもだけど、僕はそう感じた。

目の前で、今この手で、本当につかめそうな、一滴の幸せというか、救いと言うか。

それを感じた作品だったので、noteを書いてみた。

ぜひぜひ読んでほしい。


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