【SF】海中の氷音(2893文字)

僕達は正式なIDを持たない。
この国では生まれていないことになっている人間や
死んだことになっている人間や密入国者やなんかがそれに当たる。
だいたいそういう人間が面倒なことを引き受けて、
光の世界は成り立っていた。
表向き、折り目正しく秩序の守られた社会の下、
僕達は蠢いている。
海上の氷山たちが作り話だと思っていることの幾分かは、
海中では茶飯事なのだ。


ある夏のとてもとても暑い日。
僕達は比較的面倒な仕事に関わっていた。
昼夜逆転生活の僕達にとっての真昼間の仕事だったから、
というのも理由としては大きい。
なんて冗談はさておき、
依頼された筋や条件なんかが面倒だったのだ。
その代わりに見返りは大きなほうだった。

仕事の際には私語は慎むもの、
というのはどの社会でも共通なのであろう。
僕達はそれを徹底していた。
まあ僕達だけでなく
同じような仕事をしている者達はみんなそうだ。
その点にかけてはこの国の明部よりも遥かに優秀だと思う。
いつも通り黙々と仕事をこなしていた。
いつも通りにそのまま終わるはずだった。
けれど今回は違った。残念ながら。
相手のセキュリティシステムの隠しプログラムを
ひとつ見落としていたのだ。
言い訳をすればそれは非常に巧妙なものだった。
でも、0と1しかない。成功か失敗かしかないのだ。

僕達はプールの前で立ち尽くしていた。
回り込めるような場所はない。
左右にある壁には高圧電流が流されている。
プールに入らずして向こう側には渡れなかった。
ならば入ればよいというのは至極当然のご意見であろうが、
そのプールには水だけが入っていたわけではない。
いくつかの影が見えている。
古典的な、絵に描いたような手法。
相手は随分とえぐい展開がお好きなようだ。

追っ手はすぐそこまで来ていた。
奴らは余裕で、最後の距離をゆっくりと詰めてきた。
僕達がこのまま射殺されるかプールの中で死ぬか
どちらかしかない、と奴らはタカを括っている。
「僕がプールに入るから君は向こう側に行け」
「無駄だよ。重量感知してるじゃん。
プールの際にある重量以上のものがプールに入らなければ
道はできない」
「いいから僕のいうことを聞いてくれ。
どのみち射殺される運命だと思ってるなら」
「意味がわからない」
「意味がわからなくてもうまくすれば助かる」
僕は彼女の目を真っ直ぐに見つめた。
「さっきからもう充分射程距離内だ。
道ができたら…後はわかるな?」
彼女が小さく頷き、プールの縁に立ったのを確認して
僕は水にダイブした。
「重量制限解除」
呟くとプールには向こう側に渡れる道ができた。
「行け!」
彼女は一瞬だけ混乱の気配を漂わせたが、走り出した。
プールは深く、
またプールの縁から水面までは一メートルほどの距離があるから、
外の様子は容易にわからない。
プールの主が僕に寄ってきた。
口を開けて僕の左足をその中へ……

僕は叫んだ。
追っ手たちが何事か言っている。
誰かが撃て、と言って発砲音が何度かしたが
どうやら彼女には当たらなかったらしい。
よし、このまま……
右腕も飲み込まれていた。僕はまた新しい叫びを重ねる。
追っ手たちは彼女を追いかけてプールの向こう側へ走っていった。

「……なんてね」
人の気配が消えてから僕は呟いた。
プールの水はだいぶ赤く染まっている。
あの後も何度か噛まれたが、まあそれきりだ。
赤く染まったプールに三匹の鮫が浮いていた。
「重量制限、六四キログラムに設定」
呟くと先程まで現れていた道が消える。
プールの縁をつかみ、水から出た。
「さて、これからどうしたものかな…」
乗ってきた車には彼女が乗って逃げたと信じたい。
ここの車を拝借して逃げることは造作もないことだが、
問題はその後だ。
居所に帰るか、このまま行方をくらますか。

帰るならここでの仕事を続けるということだ。
仕事上のパートナーである彼女に
いくらか説明が必要になるかもしれない。
どんな仕事も怖いと思ったことはない。
でも僕は自分の体のことを知られて
彼女に遠ざけられることを妙に恐れていた。
鮫のプールに入って噛まれて、
あっさり帰ってくる人間はいない。
拒絶されることと
このままいなくなることを天秤にかけるほどに、
僕は彼女を好きになっていたのだ。


僕の体は八〇パーセントほどが生体機械だ。
この時代ではまだ未開発の技術。
僕は三年を任期としてこの時代にやってきた未来人なのだ。
目的は僕の時代では
既に失われてしまった資源に関する調査だった。
生体機械は見た目は生きた人間と変わらない。
触ってもそれは同じことだが、実際の中身はだいぶ違う。
鮫は僕の皮膚と少しの肉には歯を入れられても、
それ以上のことは出来なかったわけだ。
さっきは痛覚を切り、血液を変質させて鮫を殺した。
叫び声はすべて演技だった。
まさか鮫のプールに入った者が
自力で抜け出すとは思っていないのだろう。
死体は後で処理すればいい。あたりは静かなものだった。

僕は左の奥歯を噛む。
血は止まり、傷は急速に塞がっていった。
普段は使わない奥の手だが、
血痕を残しながら逃げるのはいろいろと面倒だ。
服を脱いで絞り、ボディスーツのみの状態でそこを後にする。
その後、僕は非常にスムーズにその施設からの脱出に成功した。
GPSを無効にするのを始め、
この車を簡単には追えなくなる手立てをいくつか講じてから、
僕は手動運転でひたすらに走った。

ようやく車を乗り捨てたのは二日後の夜。
その日は無人対応のカプセルホテルに泊まり、
衣服を調達して部屋に帰りついたのはその翌日の深夜だった。
そう、僕は結局行方をくらますほうではなく、
再び彼女に会う方を選んだのだ。
恐れはあったが、
組んで一年以上の経験から彼女ならという希望も少なからず。
僕はそちらに賭けることにした。
ベッドに転がると手の甲にコードをつなぐ。
今回は体を酷使したし、機能を使いすぎたから、
少々長めのメンテナンスが必要だった。

目を閉じるとあっさりと眠りに落ちた。
目が覚める少し前に見た夢で、
僕は生身の人間で鮫に手足を食いちぎられていた。
痛みはなかったが、いい気分ではなかった。

完全に目が覚めたのはもう空が赤と紫を混ぜている頃。
明日次の仕事の打ち合わせが入ったと連絡が来ていた。
僕が部屋に戻っていることを、
彼女は部屋の発信機からの信号で把握している。


翌日の打ち合わせが終わった帰り際、
彼女はバーに寄らないかと声をかけてきた。
いいよ、と応じて馴染みのバーに向かう。
この時代に来て二年。
仕事を始めてたった月日はそれを半年欠いた程度だが、
このバーは訪れる機会も多く、居場所の一つになっていた。

彼女はブランデーのロックを頼み、僕はオペレーターを頼む。
カウンターの端でそれらを待つ間、僕らは無言で、
お互いのグラスをぶつからせ、
鳴らしてからようやく彼女が口を開いた。

「あんたの言った通りだった」
「ん?」
「助かるってやつ」
「うまく逃げられたみたいだったね」
「私がそこでしくじるわけはない」
彼女は黙る。
僕だって余計なことを言わなくてもいいと
頭ではわかっていたのに、こぼれ出た言葉。

「聞かない?」
「…何を?」
「あの時のこと」
また彼女が黙り、三回ほどの呼吸の後で呟いた。
「結果あんたが無事なら…」
言葉が続かないのでつい彼女の方を見ると、
彼女も同じ方向を向いていた。
肩が少し震えていて驚く。
とっさに右手が伸びていた。
肩を抱いてゆっくりと呼吸する。
僕達はしばらくそうしたままだった。
呼吸が落ち着いた頃、彼女が口を開いた。

「私らはここではいないはずの人間だ。
どんなものを抱えててもおかしくはない。
だから別にあんたのことも聞かなくていい」

ブランデーに口をつけてから続けた。

「でもあんたが死ぬのは嫌だ。
こんなこと思うようになったら終わりだな」
「僕も君が死ぬのは嫌だ」
「そっか……」

ブランデーのグラスの氷が鳴る。
今日の夜はいつもよりも遥かにゆっくりと
更けていくように感じられた。

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